・・・「しみッたれるなイ、裸百貫男一匹だ。「ホホホホホ、大きな声をお出しでない、隣家の児が起きると内儀の内職の邪魔になるわネ。そんならいいよ買って来るから。と女房は台所へ出て、まだ新しい味噌漉を手にし、外へ出でんとす。「オイオイ此・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・あの晩に、私が行って嫁にあれほど腹の底を打ち割った話をして、そうして、男一匹、手をついてお願いしたのにまあ、あの落ちつき払った顔。かえって馬小屋のマギで聞いていた圭吾のほうで、申しわけ無くなって、あなた、馬小屋の梁に縄をかけ、首をくくって死・・・ 太宰治 「嘘」
・・・「そんなに痛かったら、あっさり白状して断れば、よかったんだ。」「それが僕の弱さだ。断れなかったんだ。」「そんなに弱くて、どうしますか。」いよいよ私を軽蔑する。「男一匹、そんなに弱くてよくこの世の中に生きて行けますね。」生意気なやつで・・・ 太宰治 「市井喧争」
・・・頼光をはじめ、鎮西八郎、悪源太義平などの武勇に就いては知らぬ人も無いだろうが、あの、八幡太郎義家でも、その風流、人徳、兵法に於いて優れていたばかりでなく、やはり男一匹として腕に覚えがあったから、弓馬の神としてあがめられているのである。弓は天・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・私はあの手紙は、泣きながら書きました。男一匹、泣きながら書きました。きょうは、あの手紙の返事を聞きに来ました。イエスですか、ノオですか。それだけを聞かして下さい。きざなようですけれども、(ふところから、手拭いに包んだ出刃庖丁今夜は、こういう・・・ 太宰治 「冬の花火」
・・・「とにかくそいじゃあそうして見るがいいさ、いくら彼んな人だって男一匹だもの、どうにかして行くだろうさ。 お君は、今先(ぐにも手紙を書こうかと思ったけれ共、両眼ともが、半分盲いて居る父親が、長い間、臭い汽車の中で不自由な躰をも・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・お前にこそ、富樫でも大事な御亭主だろうが、このひろい世間で、あんな男一匹が、という風に、母は啖呵をきった。一刻もうちにはおけない。すぐ二人でどこへでも出て行くがいい。さっさと出て貰おう! そう云った。富樫はあやまって、はつにもあやまらせて、・・・ 宮本百合子 「道灌山」
・・・ウィー、男一匹酒ぐらい呑めないでどうする! ホラ飲んで見ろ。これも可愛がりの一種である。子供さんが病気だというと覚えず動顛する氏の愛は、小さい息子を酔っぱらわして見たがって女房と喧嘩する父親のやりかたを子の可愛さ一般で肯定し得ないであろうと・・・ 宮本百合子 「夜叉のなげき」
・・・悲しいことは悲しいのですが、わたしだって男一匹だ。ここに来たからには、せっかくの御注意ですが、やっぱりこのまま置いてお貰い申しましょう。」ツァウォツキイはこう云って、身を反らして、傲慢な面附をして役人の方を見た。胸に挿してある小刀と同じよう・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・いったんはそう思って自分を慰めてみましたが、また思ってみると、自分だって世間並の男一匹の智慧しか持っていないのに気が附かずにはいられなかったのですね。それに反してあの写真の男の額からは、才気が毫光のさすように溢れて出ているでしょう。どうして・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「最終の午後」
出典:青空文庫