・・・「失礼ですが、お住所は?」「は、提灯よ。」 と目許の微笑。丁と、手にした猪口を落すように置くと、手巾ではっと口を押えて、自分でも可笑かったか、くすくす笑う。「町名、町名、結構。」 一帆は町名と聞違えた。「いいえ、提灯・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・世間並のお世辞上手な利口者なら町内の交際ぐらいは格別辛くも思わないはずだが、毎年の元旦に町名主の玄関で叩頭をして御慶を陳べるのを何よりも辛がっていた、負け嫌いの意地ッ張がこんな処に現われるので、心からの頭の低い如才ない人では決してなかった。・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・というふうに退引きのならぬように聞いて来るので、吉田は自分のところの町名、それからその何丁目というようなことまで、だんだんに言っていかなければならなくなった。吉田はそんな女にちっとも嘘を言う気持はなかったので、そこまで自分の住所を打ち明かし・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・それからすぐ帰宅して見るとその同じ人からはがきが来ていた。町名番地が変わったからという活版刷りの通知状であったが、とにかく年賀状以外にこの人の書信に接したことはやはり四五年来一度もなかったはずである。 そのはがきを出したのは銀座で会う以・・・ 寺田寅彦 「藤棚の陰から」
・・・ 十月二十五日から三月十八日 おらおっちぬよ、そんけ乗ったら、この年で…… これは、革命後ロシアではいろんな町名が変えられ、それが大抵世界のプロレタリアート革命運動に関係のある年月日、人名などを揶揄ったレーニングラード人の笑話である。・・・ 宮本百合子 「スモーリヌイに翻る赤旗」
・・・勿論、今、ひろ子が住んでいる弟の家も。町名、番地、隣組番号さえ重吉は知っている。その家に両親が暮していたとき、重吉も来たことさえある。だが、焼野原となった東京で、かえって来た重吉の心に、めじるしとして感じられたのは、昔の二階家であった。その・・・ 宮本百合子 「風知草」
・・・折を見て、連合国側にちょいと参加して、南洋の旧ドイツ領の委任統治地を稼いだし、青島に日本名で町名をつけることに成功したりした。人民の生命に責任を感じない彼等は近代戦争の惨劇というものを根柢から理解していなかった。三十年四十年と後れた平面的な・・・ 宮本百合子 「私たちの建設」
・・・祖母の話を物陰から聞いた事、夜になって床に入ってから、出願を思い立った事、妹まつに打ち明けて勧誘した事、自分で願書を書いた事、長太郎が目をさましたので同行を許し、奉行所の町名を聞いてから、案内をさせた事、奉行所に来て門番と応対し、次いで詰衆・・・ 森鴎外 「最後の一句」
出典:青空文庫