・・・ 黒棚、御廚子、三棚の堆きは、われら町家の雛壇には些と打上り過ぎるであろう。箪笥、長持、挟箱、金高蒔絵、銀金具。小指ぐらいな抽斗を開けると、中が紅いのも美しい。一双の屏風の絵は、むら消えの雪の小松に丹頂の鶴、雛鶴。一つは曲水の群青に桃の・・・ 泉鏡花 「雛がたり」
・・・あるいは丘に、坂、谷に、径を縫う右左、町家が二三軒ずつ門前にあるばかりで、ほとんど寺つづきだと言っても可い。赤門には清正公が祭ってある。北辰妙見の宮、摩利支天の御堂、弁財天の祠には名木の紅梅の枝垂れつつ咲くのがある。明星の丘の毘沙門天。虫歯・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・……「……姐さん、ここの前を右へ出て、大な絵はがき屋だの、小料理屋だの、賑な処を通り抜けると、旧街道のようで、町家の揃った処がある。あれはどこへ行く道だね。」「それはね、旦那さん、那谷から片山津の方へ行く道だよ。」「そうか――そ・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・昔は大抵な家では自宅へ職人を呼んで餅を搗かしたもんで、就中、下町の町家では暮の餅搗を吉例としたから淡島屋の団扇はなければならぬものとなって、毎年の年の市には景物目的のお客が繁昌し、魚河岸あたりの若い衆は五本も六本も団扇を貰って行ったそうであ・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・紺の筒袖を着て白もめんの兵児帯をしめている様子は百姓の子でも町家の者でもなさそうでした。 手に太い棒切れを持ってあたりをきょろきょろ見回していましたが、フト石垣の上を見上げた時、思わず二人は顔を見合わしました。子供はじっと私の顔を見つめ・・・ 国木田独歩 「春の鳥」
・・・道太の祖父の代に、古い町家であったその家へ、縁組があった。いつごろそんな商売をやりだしたか知らなかったが、今でも長者のような気持でいるおひろたちの母親は、口の嗜好などのおごったお上品なお婆さんであった。時代の空気の流れないこの町のなかでも、・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ 端唄が現す恋の苦労や浮世のあじきなさも、または浄瑠璃が歌う義理人情のわずらわしさをもまだ経験しない幸福な富裕な町家の娘、我儘で勝気でしかも優しい町家の娘の姿をば自分は長唄の三味線の音につれてありありと空想中に描き出した。そして八月の炎・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・むかしの無頼漢が町家の店先に尻をまくって刺青を見せるのと同しである。僕はお民が何のために突然僕の家へ来たのかを問うより先に、松屋呉服店あたりで販売するとか聞いているシャルムーズの羽織一枚で殆前後を忘れるまでに狼狽した。殊にその日は博文館との・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・いつもは左側にある街路の町家が、逆に右側の方へ移ってしまった。そしてただこの変化が、すべての町を珍しく新しい物に見せたのだった。 その時私は、未知の錯覚した町の中で、或る商店の看板を眺めていた。その全く同じ看板の絵を、かつて何所かで見た・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・我輩がかつて戯れに古人の教えを評し、町家の売物に懸直あるが如しといいしもこの辺の意味にして、『女大学』の濃厚苛刻なる文面を正面より受取り、その極端を行わんとするは、とても実際に叶わざることなれども、さりとて教えの言として見れば道理に差支ある・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
出典:青空文庫