・・・むかしの無頼漢が町家の店先に尻をまくって刺青を見せるのと同しである。僕はお民が何のために突然僕の家へ来たのかを問うより先に、松屋呉服店あたりで販売するとか聞いているシャルムーズの羽織一枚で殆前後を忘れるまでに狼狽した。殊にその日は博文館との・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・いつもは左側にある街路の町家が、逆に右側の方へ移ってしまった。そしてただこの変化が、すべての町を珍しく新しい物に見せたのだった。 その時私は、未知の錯覚した町の中で、或る商店の看板を眺めていた。その全く同じ看板の絵を、かつて何所かで見た・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・我輩がかつて戯れに古人の教えを評し、町家の売物に懸直あるが如しといいしもこの辺の意味にして、『女大学』の濃厚苛刻なる文面を正面より受取り、その極端を行わんとするは、とても実際に叶わざることなれども、さりとて教えの言として見れば道理に差支ある・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・都会人らしい――それも町家の――心持に教養の加った気分で生活している間に、ひょい、ひょいと人生の明暗に触れる。そこにあの静かな少し淋しいようなユーモアが生じる。網野さんの芸術には勿論他に種々の要素があるとしても、この点はかなり主な独自性の一・・・ 宮本百合子 「九月の或る日」
・・・ 宿を出、両側、歩道の幅だけ長方形の石でたたんだ往来を、本興善町へ抜け、或る角を右にとる。町家は、表に細かい格子をはめた大阪風だ。川がある。柳の葉かげ、水際まで石段のついた支那風石橋がかかっている。橋上に立つと、薄い夕靄に柔められた光線・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
・・・停留場までの道は狭い町家続きで、通る時に主人の挨拶をする店は大抵極まっている。そこは気を附けて通るのである。近所には木村に好意を表していて、挨拶などをするものと、冷澹で知らない顔をしているものとがある。敵対の感じを持っているものはないらしい・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・おとつい焼け残った町家が、又この火事で焼けた。 十日には又寒い西北の風が強く吹いていると、正午に大名小路の松平伯耆守宗発の上邸から出火して、京橋方面から芝口へ掛けて焼けた。 続いて十一日にも十二日にも火事がある。物価の高いのに、災難・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
出典:青空文庫