・・・ 譚永年は僕と同期に一高から東大の医科へはいった留学生中の才人だった。「きょうは誰かの出迎いかい?」「うん、誰かの、――誰だと思う?」「僕の出迎いじゃないだろう?」 譚はちょっと口をすぼめ、ひょっとこに近い笑い顔をした。・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・ またある留学生の仲間がベルリンのTという料理屋で食事をした時に、いつもするように一同で連名の絵葉書をかいた。その時誰かの万年筆のインキがほんの少しばかり卓布を汚したのに対して、オーバーケルナーが五マルクとかの賠償金を請求した。血気な連・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・作者はハンガリー人で、日本の留学生のことを仕組んだものだそうです。たいへん人気がいいそうであります。主人公の日本人の名がドクトル・タケラモ・ニトベというのだそうで、このタケラモだけでも行って見る気がしなくなります。人の話によるとなかなかよく・・・ 寺田寅彦 「先生への通信」
・・・名刺をもらって見るとそれは某大学の留学生で法学士のN氏であった。N氏の話によると自分の旧知のK氏が今ちょうどドイツからイタリア見物の途上でナポリに来ているとの事であった。自分は会いたかったが出帆前にとてもそれだけの時間はなかった。思いもかけ・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・日本の留学生ばかりを弟子にして生活していたのが、大戦の爆発と共に留学生は皆引き上げるし、同時に日本人に対する市民の反感が高まった時に、なんらかのいやな経験をしたのではあるまいか、その後の生計をどうして立てて行ったろうか。これは何かのおりには・・・ 寺田寅彦 「病室の花」
・・・講演会でペンクが青島の話をしたとき、かの地がいかに地の利に富むかということを力説し、ここを占有しているドイツは東洋の咽喉を扼しているようなものだという意味を婉曲に匂わせながら聴衆の中に交じっている日本留学生の自分の顔を見てにこにこした。後年・・・ 寺田寅彦 「ベルリン大学(1909-1910)」
・・・ 日本の大学へ、欧米から留学生が押しかけて来るようになったら、日本の製造工場へピッツバーグやスケネクタディあたりから、見習職工が集まって来るようになったら、そうしたら、一切のこういう問題はなくなるだろう。 米国の排日法は、桐の一葉の・・・ 寺田寅彦 「鑢屑」
・・・なるほど留学生の学資は御話しにならないくらい少ない。倫敦ではなおなお少ない。少ないがこの留学費全体を投じて衣食住の方へ廻せば我輩といえども最少しは楽な生活ができるのさ。それは国にいる時分の体面を保つ事は覚束ないが(国にいれば高等官一等から五・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・「あなた方の学校にも、支那の留学生がいますか」 ちょうど漢口事件のあった後であった。訊かれた学生は互に一寸顔を見合わせるような素振りをし、「僕たちの方には来ていません」と低い声で答えた。「――本国であんなごたごたしている・・・ 宮本百合子 「北へ行く」
・・・そして、このごろのように幾年ぶりかで国の内外の往来が恢復しはじめると、ユネスコの問題にしろ国際的だし、アメリカへの留学生の出発も国際的な一つのできごとだし、織姫渡米も国際的な現象の一つとなった。 それにつけても、わたしたち日本の婦人は、・・・ 宮本百合子 「それらの国々でも」
出典:青空文庫