・・・その頃市中 わたくしは三カ月ほど外へ出たことがなかったので、人力車から新橋の停車場に降り立った時、人から病人だと思われはせぬかと、その事がむやみに気まりがわるく、汽車に乗込んでからも、帽子を眉深にかぶり顔を窗の方へ外向けて、ろくろく父と・・・ 永井荷風 「十六、七のころ」
・・・「しかし病人は大丈夫かい」「君まで妙な事を言うぜ。少々伝通院の坊主にかぶれて来たんじゃないか。そんなに人を威嚇かすもんじゃない」「威嚇かすんじゃない、大丈夫かと聞くんだ。これでも君の妻君の身の上を心配したつもりなんだよ」「大・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・「じゃあ何だって、友達を素っ裸にして、病人に薬もやらないで、おまけに未だ其上見ず知らずの男にあの女を玩具にさすんだ」「俺達はそうしたい訳じゃないんだ、だがそうしなけれゃあの女は薬も飲めないし、卵も食えなくなるんだ」「え、それじゃ・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・元来人の子に教を授けて之を完全に養育するは、病人に薬を服用せしめて其薬に適宜の分量あるが如し。既に其分量を誤るときは良薬も却て害を為す可し。左れば父母が其子を養育するに、仮令い教訓の趣意は美なりとするも、女子なるが故にとて特に之を厳にするは・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
植物学の上より見たるくだものでもなく、産物学の上より見たるくだものでもなく、ただ病牀で食うて見たくだものの味のよしあしをいうのである。間違うておる処は病人の舌の荒れておる故と見てくれたまえ。○くだものの字義 くだもの、という・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・病人はキシキシと泣く。「お医者さん。私の病気は何でしょう。いつごろ私は死にましょう。」「さよう、病人が病名を知らなくてもいいのですがまあ蛭石病の初期ですね、所謂ふう病の中の一つ。俗にかぜは万病のもとと云いますがね。それから、ええ・・・ 宮沢賢治 「楢ノ木大学士の野宿」
・・・手前どもでは、よそのようにどんな方にでもお貸ししたくないもんですから……どうも御病人は、ねえあなた」 筒袖絆纏を着た六十ばかりの神さんが、四畳の方の敷居の外からそのような挨拶をした。陽子は南向きの出窓に腰かけて室内を眺めているふき子に小・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ この卓や寝台の置いてある診察室は、南向きの、一番広い間で、花房の父が大きい雛棚のような台を据えて、盆栽を並べて置くのは、この室の前の庭であった。病人を見て疲れると、この髯の長い翁は、目を棚の上の盆栽に移して、私かに自ら娯むのであった。・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・が、事実は秋三や母のお霜がしたように、病人の乞食を食客に置く間の様々な不愉快さと、経費とを一瞬の間に計算した。 お霜は麦粉に茶を混ぜて安次に出した。「飯はちょっともないのやわ、こんなもんでも好けりゃ食べやいせ。」「そうかな、大き・・・ 横光利一 「南北」
・・・三年前の大患以後、病気つづきで、この年にも『行人』の執筆を一時中絶したほどであったが、一向病人らしくなく、むしろ精悍な体つきに見えた。どこにもすきのない感じであった。漱石の旧友が訪ねて行って、同じようにして迎えられたとき、「いやに威張ってい・・・ 和辻哲郎 「漱石の人物」
出典:青空文庫