・・・木下繁ももはや故人だが、一時は研究所あたりに集まる青年美術家の憧憬の的となった画家で、みんなから早い病死を惜しまれた人だ。 その時になって見ると、新しいものを求めて熱狂するような三郎の気質が、なんとなく私の胸にまとまって浮かんで来た。ど・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・それから三箇月経って、この兄は病死した。二十七歳であった。兄の死後も、私は、その戸塚の下宿にいた。二学期からは、学校へは、ほとんど出なかった。世人の最も恐怖していたあの日蔭の仕事に、平気で手助けしていた。その仕事の一翼と自称する大袈裟な身振・・・ 太宰治 「東京八景」
数年前に「ボーヤ」と名づけた白毛の雄猫が病死してから以来しばらくわが家の縁側に猫というものの姿を見ない月日が流れた。先年、犬養内閣が成立したとおなじ日に一羽のローラーカナリヤが迷い込んで来たのを捕えて飼っているうち、ある朝・・・ 寺田寅彦 「ある探偵事件」
・・・この丑尾さんは、たしか自分の家がその後一時東京に移っていたその二年の間に病死してしまったので、十歳にも満たない本当に果敢ない存在ではあった。しかし自分の幼年時代の追憶の夢の舞台に登場する唯一の異性のヒロインはこのやや不器量で可哀そうな丑尾さ・・・ 寺田寅彦 「重兵衛さんの一家」
・・・それからまもなく謙信が病死したとある。これももちろんあまり当てにならない話であるが、しかし作りごとにしてもなんらかの自然現象から暗示された作りごとであるかもしれない。私の調べたところでは、北陸道一帯にかけて昔も今も山くずれ地すべ・・・ 寺田寅彦 「化け物の進化」
亮の一周忌が近くなった。かねてから思い立っていた追憶の記を、このしおに書いておきたいと思う。 亮は私の長姉の四人の男の子の第二番目である。長男は九年前に病死し、四男はそれよりずっと前、まだ中学生の時代に夭死した。昨年ま・・・ 寺田寅彦 「亮の追憶」
・・・この寺はむかしから遊女の病死したもの、または情死して引取手のないものを葬る処で、安政二年の震災に死した遊女の供養塔が目に立つばかり。その他の石は皆小さく蔦かつらに蔽われていた。その頃年少のわたくしがこの寺の所在を知ったのは宮戸座の役者たちが・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・ 葉松石は同じころ、最初の外国語学校教授に招聘せられた人で、一度帰国した後、再び来遊して、大阪で病死した。遺稿『煮薬漫抄』の初めに詩人小野湖山のつくった略伝が載っている。 毎年庭の梅の散りかける頃になると、客間の床には、きまって何如・・・ 永井荷風 「十九の秋」
・・・汽車でも電車でも出入りの不便な貧しい場末の町に引込んで秋雨を聴きつつ老い行く心はどんなであろう……何の気なしに思いつくと、自分は今までは唯淋しいとばかり見ていた場末の町の心持に、突然人間の零落、老衰、病死なぞいう特種の悲惨を附加えて見ずには・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・泳げないから浅草橋あたりまで行って釣舟屋の舟を借り、両国から向嶋、永代から品川の砲台あたりまで漕ぎ廻ったが、やがて二、三年過るとその興味も追々他に変じて、一ツ舟に乗り合せた学校友達とも遠ざかり、中には病死したものもあるが、月日と共にその名さ・・・ 永井荷風 「向島」
出典:青空文庫