・・・最後のペテルスブルグ生活は到着早々病臥して碌々見物もしなかったらしいが、仮に健康でユルユル観光もし名士との往来交歓もしたとしても二葉亭は果して満足して得意であったろう乎。二葉亭は以前から露西亜を礼讃していたのではなかった。来て見れば予期以上・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
一 道太が甥の辰之助と、兄の留守宅を出たのは、ちょうどその日の昼少し過ぎであった。彼は兄の病臥している山の事務所を引き揚げて、その時K市のステーションへ著いたばかりであったが、旅行先から急電によって、兄の見舞いに来たので、ほんの・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ 結婚した大町さんは、病臥生活の良人について、愛知県の田舎の町の良人の生家へゆきそこで七年以上くらした。解放運動のために健康を失い、経済的基礎もうしなった者が、そういう点で理解のとぼしい田舎町へかえってくらすこころもちには、実にいいあら・・・ 宮本百合子 「大町米子さんのこと」
・・・足かけ三年の病臥の後です。二十日に重治さんから教えられて、咲枝、稲ちゃんと三人で出かけ夜十二時頃かえるつもりで行ったのですが、いかにもかえりかねてお通夜をしました。知義さん、須山さん[自注20]、大月さん[自注21]等肖像をかきました。二十・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・ これ丈永い間病臥して半流動物の食物しか摂れない経験は始めてだ。 去年の一月、グリップを患った。熱が高くて頭や頸がこわばって一寸夢中になった。少しましになってからYが 弱るから何かおあがり、何か食べたいものをお考え と日に何度となく・・・ 宮本百合子 「一九二九年一月――二月」
・・・ 大町さんは、七年の間病臥にあった御良人のために、誰よりもよい看護婦でありました。誰よりもよい看護婦である傍ら、自分たちの生活のために、国民学校教員となって、働きました。地方の農村の国民学校が、すべて学業よりも草刈り、繩作りと軍需供出に・・・ 宮本百合子 「婦人の皆さん」
・・・その腹稿はやっと、福沢諭吉が最後の病臥をするようになって初めて公衆の前にあらわされた次第であった。「夫れ女子は男子に等しく生れて」という冒頭をもった全篇二十三ヵ条のその「新女大学」で福沢諭吉が最も力をこめている点は、婦人の独自な条件に立・・・ 宮本百合子 「三つの「女大学」」
出典:青空文庫