・・・俺は今日も事務を執りながら、気違いになるくらい痒い思いをした。とにかく当分は全力を挙げて蚤退治の工夫をしなければならぬ。……「八月×日 俺は今日マネエジャアの所へ商売のことを話しに行った。するとマネエジャアは話の中にも絶えず鼻を鳴らせて・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・――「ナポレオンでも蚤に食われた時は痒いと思ったのに違いないのだ。」 或左傾主義者 彼は最左翼の更に左翼に位していた。従って最左翼をも軽蔑していた。 無意識 我我の性格上の特色は、――少くとも最も著し・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・眼を瞑ったようなつもりで生活というものの中へ深入りしていく気持は、時としてちょうど痒い腫物を自分でメスを執って切開するような快感を伴うこともあった。また時として登りかけた坂から、腰に縄をつけられて後ざまに引き下されるようにも思われた。そうし・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・指のさきで払い落したあとが、むずむずと痒いんだね。 御手洗は清くて冷い、すぐ洗えばだったけれども、神様の助けです。手も清め、口もそそぐ。……あの手をいきなり突込んだらどのくらい人を損ったろう。――たとい殺さないまでもと思うと、今でも身の・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・摺った揉んだの挙句が、小春さんはまた褄を取っているだがね、一度女房にした女が、客商売で出るもんだで、夜がふけてでも見なさいよ、いらいらして、逆気上って、痛痒い処を引掻いたくらいでは埒あかねえで、田にしも隠元豆も地だんだを蹈んで喰噛るだよ。血・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・ 登勢はいやな顔一つ見せなかったから、痒いところへ届かせるその手の左利きをお定はふとあわれみそうなものだのに、やはり三角の眼を光らせて、鈍臭い、右の手使いなはれ。そして夜中用事がなくても呼び起すので、登勢は帯を解く間もなく、いつか眼のふ・・・ 織田作之助 「螢」
・・・ジンマシンなら、痒い筈だが。まさか、ハシカじゃなかろう。」 私は、あわれに笑いました。着物を着直しながら、「糠に、かぶれたのじゃないかしら。私、銭湯へ行くたんびに、胸や頸を、とてもきつく、きゅっきゅっこすったから。」 それかも知・・・ 太宰治 「皮膚と心」
・・・この手、この足、痒いときには掻き、痛いときには撫でるこの身体が私かと云うと、そうも行かない。痒い痛いと申す感じはある。撫でる掻くと云う心持ちはある。しかしそれより以外に何にもない。あるものは手でもない足でもない。便宜のために手と名づけ足と名・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・ 時にはその大きくあいた口の横わきをさも痒いようなふりをして指でこすりながらはあはあ息だけで笑いました。 なるほど遠くから見ると虔十は口の横わきを掻いているか或いは欠伸でもしているかのように見えましたが近くではもちろん笑っている息の・・・ 宮沢賢治 「虔十公園林」
・・・ 不図太鼓の音が南京虫にくわれて痒い耳についた。ドーン、ドン。ドン、ドン……段々近づいて来るのをきくと、それはキリスト教の伝道であった。益々早く太鼓をうち、何とかして、 信ずるものは誰れェも みィな救ゥくわるゥ 急に止っ・・・ 宮本百合子 「刻々」
出典:青空文庫