・・・ここへ色の青い恐ろしく痩せた束髪の三十くらいの女をつれた例の生白いハイカラが来て機関長と挨拶をしていたが、女はとうとうこの室の寝台を占領した。何者だろう。黒紋付をちらと見たら蔦の紋であった。宿の二階から毎日見下ろして御なじみの蚕種検査の先生・・・ 寺田寅彦 「高知がえり」
・・・おひろはもう三十ぐらいになっている勘定であった。「お久しぶりですね」おひろは瘠せた膝をして、ぴったりとそこに坐った。「相変らず瘠せているね。やっぱり出てるんだね」道太は浅黒いその顔を見ながら話しかけた。「ええ、効性がないもんです・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・何処から迷込んだとも知れぬ痩せた野良犬の、油揚を食って居る処を、家の飼犬が烈しく噛み付いて、其の耳を喰切った事がある。一家中、何時とはなく、狐は何処へか逃げてしまった。狐ではなく、あれも矢張り野良犬であったのかも知れぬと、自然に安堵の色を見・・・ 永井荷風 「狐」
・・・雀の毛をったように痩せて小さかった。お石は可哀想だから救って来たのだといった。太十は独で笑いながら懐へ入れて見ると矢張りくるりとなって寝た。鍋の破片へ飯をくれたが食わない。味噌汁をかけてやったらぴしゃぴしゃと甞めた。暫くすると小さいながら尾・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ エレーンは父の後ろに小さき身を隠して、このアストラットに、如何なる風の誘いてか、かく凛々しき壮夫を吹き寄せたると、折々は鶴と瘠せたる老人の肩をすかして、恥かしの睫の下よりランスロットを見る。菜の花、豆の花ならば戯るる術もあろう。偃蹇と・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・私の頭には、痩せた屈み腰の学生服を着た岩元君をしか想像することはできない。私は始終鎌倉に来るようになってから、一度同君を尋ねて見たいと思っていた。しかし今度こそはと思いながら、無精な私はいつも奮発できなかった。その中、同君の逝去せられたのを・・・ 西田幾多郎 「明治二十四、五年頃の東京文科大学選科」
・・・建物は不安に歪んで、病気のように瘠せ細って来た。所々に塔のような物が見え出して来た。屋根も異様に細長く、瘠せた鶏の脚みたいに、へんに骨ばって畸形に見えた。「今だ!」 と恐怖に胸を動悸しながら、思わず私が叫んだ時、或る小さな、黒い、鼠・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ 彼女は熱い鉄板の上に転がった蝋燭のように瘠せていた。未だ年にすれば沢山ある筈の黒髪は汚物や血で固められて、捨てられた棕櫚箒のようだった。字義通りに彼女は瘠せ衰えて、棒のように見えた。 幼い時から、あらゆる人生の惨苦と戦って来た一人・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・病気ではないが、頬に痩せが見えるのに、化粧をしないので、顔の生地は荒れ色は蒼白ている。髪も櫛巻きにして巾も掛けずにいる。年も二歳ばかり急に老けたように見える。 火鉢の縁に臂をもたせて、両手で頭を押えてうつむいている吉里の前に、新造のお熊・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 一言の返事もせずに、地びたから身を起したのは、痩せ衰えた爺いさんである。白い鬚がよごれている。頭巾の附いた、鼠色の外套の長いのをはおっているが、それが穴だらけになっている。爺いさんはパンと腸詰とを、物欲しげにじっと見ている。 一本・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
出典:青空文庫