・・・瞬間、栗本はいつもからの癇癪を破裂さした。暗い闇が好機だという意識が彼にあった。振り上げられた銃が馬の背に力いっぱいに落ちて行った。いつ弾丸の餌食になるか分らない危険な仕事は、すべて日本兵がやらせられている。共同出兵と云っている癖に、アメリ・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・五六日は身体が悪いって癇癪ばかり起してネ、おいらを打ったり擲いたりした代りにゃあ酒買いのお使いはせずに済んだが、もう癒ったからまた今日っからは毎日だろう。それもいいけれど、片道一里もあるところをたった二合ずつ買いに遣されて、そして気むずかし・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・ 到頭、おげんは弟達の居るところで、癇癪を破裂させてしまった。「こんなに多勢弟が揃っていながら、姉一人を養えないとは――呆痴め」 その時、おげんは部屋の隅に立ち上って、震えた。彼女は思わず自分の揚げた両手がある発作的の身振りに変・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・持つ兵隊の手を、熊の手みたいに恐ろしく大きく切り抜いたり、そうしていちいち私に怒鳴られ、夏のころであった、お慶は汗かきなので、切り抜かれた兵隊たちはみんな、お慶の手の汗で、びしょびしょ濡れて、私は遂に癇癪をおこし、お慶を蹴った。たしかに肩を・・・ 太宰治 「黄金風景」
・・・大町桂月、福本日南等と交友あり、桂月を罵って、仙をてらう、と云いつつ、おのれも某伯、某男、某子等の知遇を受け、熱烈な皇室中心主義者、いっこくな官吏、孤高狷介、読書、追及、倦まざる史家、癇癪持の父親として一生を終りました。十三歳の時です。その・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・不平を言ったり、癇癪を起したり、わがまま言ったりして下されば、私もうれしいのだけれど、新ちゃんは、何も言わない。新ちゃんが不平や人の悪口言ったのを聞いたことがない。その上いつも明るい言葉遣い、無心の顔つきをしているのだ。それがなおさら、私の・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・ この文辞の間にはラスキンの癇癪から出た皮肉も交じってはいるが、ともかくもある意味ではやはり思想上の浅草紙の弁護のようにも思われる。 エマーソンとラスキンの言葉を加えて二で割って、もう一遍これを現在のある過激な思想で割るとどうなるだ・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
・・・ 煙草の効能の一つは憂苦を忘れさせ癇癪の虫を殺すにあるであろうが、それには巻煙草よりはやはり煙管の方がよい。昔自分に親しかったある老人は機嫌が悪いと何とも云えない変な咳払いをしては、煙管の雁首で灰吹をなぐり付けるので、灰吹の頂上がいつも・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・といいながら二人三人と猫の子のようにくッつき合って、一人でおとなしく黙っているものに戯いかける。揚句の果に誰かが「髪へ触っちゃ厭だっていうのに。」と癇癪声を張り上げるが口喧嘩にならぬ先に窓下を通る蜜豆屋の呼び声に紛らされて、一人が立って慌た・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・「そうかね。じゃ、僕もこれから、ちと剛健党の御仲間入りをやろうかな」「無論の事さ。だからまず第一着にあした六時に起きて……」「御昼に饂飩を食ってか」「阿蘇の噴火口を観て……」「癇癪を起して飛び込まないように要心をしてか」・・・ 夏目漱石 「二百十日」
出典:青空文庫