・・・ 主筆 ははあ、発狂したのですね。 保吉 何、莫迦莫迦しさに業を煮やしたのです。それは業を煮やすはずでしょう。元来達雄は妙子などを少しも愛したことはないのですから。…… 主筆 しかしそれじゃ。…… 保吉 達雄はただ妙子の家へ・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・彼女の心に発狂と言う恐怖のきざしたのはこの時である。常子は夫を見つめたまま、震える声に山井博士の来診を請うことを勧め出した。しかし彼は熱心に細引を脚へからげながら、どうしてもその勧めに従わない。「あんな藪医者に何がわかる? あいつは泥棒・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・あの河童は職を失った後、ほんとうに発狂してしまいました。なんでも今は河童の国の精神病院にいるということです。僕はS博士さえ承知してくれれば、見舞いにいってやりたいのですがね……。 芥川竜之介 「河童」
・・・Swift の畢に発狂したのも当然の結果と云う外はない。 スウィフトは発狂する少し前に、梢だけ枯れた木を見ながら、「おれはあの木とよく似ている。頭から先に参るのだ」と呟いたことがあるそうである。この逸話は思い出す度にいつも戦慄を伝えずに・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・その光に透かして見れば、これは頭部銃創のために、突撃の最中発狂したらしい、堀尾一等卒その人だった。 二 間牒 明治三十八年三月五日の午前、当時全勝集に駐屯していた、A騎兵旅団の参謀は、薄暗い司令部の一室に、二人の支那・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・「あなた、けさの新聞を読んで?」「うん。」「本所かどこかのお弁当屋の娘の気違いになったと云う記事を読んで?」「発狂した? 何で?」 夫はチョッキへ腕を通しながら、鏡の中のたね子へ目を移した。たね子と云うよりもたね子の眉へ・・・ 芥川竜之介 「たね子の憂鬱」
・・・ 発狂――こう云う怖れは、修理自身にもあった。周囲が、それを感じていたのは云うまでもない。修理は勿論、この周囲の持っている怖れには反感を抱いている。しかし彼自身の感ずる怖れには、始めから反抗のしようがない。彼は、発作が止んで、前よりも一・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・三 僕は母の発狂した為に生まれるが早いか養家に来たから、僕の父にも冷淡だった。僕の父は牛乳屋であり、小さい成功者の一人らしかった。僕に当時新らしかった果物や飲料を教えたのは悉く僕の父である。バナナ、アイスクリイム、パイナアッ・・・ 芥川竜之介 「点鬼簿」
・・・ かつて、山神の社に奉行した時、丑の時参詣を谷へ蹴込んだり、と告った、大権威の摂理太夫は、これから発狂した。 ――既に、廓の芸妓三人が、あるまじき、その夜、その怪しき仮装をして内証で練った、というのが、尋常ごとではない。 十日を・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・が、ものの三月と経たぬ中にこのべらぼう、たった一人の女房の、寝顔の白い、緋手絡の円髷に、蝋燭を突刺して、じりじりと燃して火傷をさした、それから発狂した。 但し進藤とは違う。陰気でない。縁日とさえあればどこへでも押掛けて、鏝塗の変な手つき・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
出典:青空文庫