・・・ ある支店長のごときは、旅費をどう工面したのか、わざわざ静岡から出て来て、殆んど発狂同然の状態で霞町の総発売元へあばれ込み、丹造の顔を見た途端に、昂奮のあまり、鼻血を出して、「川那子! この血を啜れ! この血を。おれの血の最後の一滴・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・おげんは小山の家の方から、発狂した父を見舞いに行ったことがある。父は座敷牢に入っていても、何か書いて見たいと言って、紙と筆を取寄せて、そんなに成っても物を書くことを忘れなかった。「おげん、ここへ来さっせれ、一寸ここへ来さっせれ」と父がしきり・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・目立って来て、赤ん坊にあげるおっぱいの出もほそくなり、夫も、食がちっともすすまぬ様子で、眼が落ちくぼんで、ぎらぎらおそろしく光って、或る時、ふふんとご自分をあざけり笑うような笑い方をして、「いっそ発狂しちゃったら、気が楽だ。」 と言・・・ 太宰治 「おさん」
・・・自分でも、ほとんど発狂しているのではないかと思うほど、仕事のことばかり考えつめているんです。酒も煙草も、また、おいしい副食物も、いまの日本人にはぜいたくだ、やめろと言う事になったら、日本に一人もいい芸術家がいなくなります。それだけは私、断言・・・ 太宰治 「家庭の幸福」
・・・酒は、私の発狂を制止してくれた。私の自殺を回避させてくれた。私は酒を呑んで、少し自分の思いを、ごまかしてからでなければ、友人とでも、ろくに話のできないほど、それほど卑屈な、弱者なのだ。 少し酔って来た。すし屋の女中さんは、ことし二十七歳・・・ 太宰治 「鴎」
・・・のみならず、彼は建立が完成されても、囲をとり払うとともに塔が倒れても、やはり発狂したそうです。こういう芸術体験上の人工の極致を知っているのは、おそらく君でしょう。それゆえ、あなたは表情さえ表現しようとする、当節誇るべき唯一のことと愚按いたし・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・あきらかに、錯乱、発狂の状態である。実にあわれなものである。おやじは、ひとり落ちつき、「きょうは、鯛の塩焼があるよ。」と呟く。 すかさず一青年は卓をたたいて、「ありがたい! 大好物。そいつあ、よかった。」内心は少しも、いい事はな・・・ 太宰治 「禁酒の心」
・・・いっそ、その女たちを全部、一室に呼び集め、蛍の光でも歌わせて、いや、仰げば尊し、のほうがいいかな、お前が一人々々に卒業証書を授与してね、それからお前は、発狂の真似をして、まっぱだかで表に飛び出し、逃げる。これなら、たしかだ。女たちも、さすが・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
・・・胆が太いせいでは無くて、極度の小心者ゆえ、こんな場合ただちに発狂状態に到達してしまうのであるという解釈のほうが、より正しいようである。「はははは。」と私は空虚な笑声を発した。「恥ずかしくて、きりきり舞いした揚句の果には、そんな殺伐なポオ・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・実の兄、カリギュラ王の発狂である。昨日のやさしき王は、一朝にしてロオマ史屈指の暴君たるの栄誉を担った。かつて叡智に輝やける眉間には、短剣で切り込まれたような無慙に深い立皺がきざまれ、細く小さい二つの眼には狐疑の焔が青く燃え、侍女たちのそよ風・・・ 太宰治 「古典風」
出典:青空文庫