・・・これらの町々を通る人の耳には、日をうけた土蔵の白壁と白壁との間から、格子戸づくりの薄暗い家と家との間から、あるいは銀茶色の芽をふいた、柳とアカシアとの並樹の間から、磨いたガラス板のように、青く光る大川の水は、その、冷やかな潮のにおいとともに・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・高い曇天の山の前に白壁や瓦屋根を積み上げた長沙は予想以上に見すぼらしかった。殊に狭苦しい埠頭のあたりは新しい赤煉瓦の西洋家屋や葉柳なども見えるだけに殆ど飯田河岸と変らなかった。僕は当時長江に沿うた大抵の都会に幻滅していたから、長沙にも勿論豚・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・しかし薄蒼いパイプの煙は粟野さんの存在を証明するように、白壁を背にした空間の中へ時々かすかに立ち昇っている。窓の外の風景もやはり静かさには変りはない。曇天にこぞった若葉の梢、その向うに続いた鼠色の校舎、そのまた向うに薄光った入江、――何もか・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・殊に紅唐紙の聯を貼った、埃臭い白壁の上に、束髪に結った芸者の写真が、ちゃんと鋲で止めてあるのは、滑稽でもあれば悲惨でもあった。 そこには旅団参謀のほかにも、副官が一人、通訳が一人、二人の支那人を囲んでいた。支那人は通訳の質問通り、何でも・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・ やっと腰を起した主人は保吉と云うよりもむしろ父へ向うの白壁を指し示した。幻燈はその白壁の上へちょうど差渡し三尺ばかりの光りの円を描いている。柔かに黄ばんだ光りの円はなるほど月に似ているかも知れない。が、白壁の蜘蛛の巣や埃もそこだけはあ・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・そうして蘆と藺との茂る濠を見おろして、かすかな夕日の光にぬらされながら、かいつぶり鳴く水に寂しい白壁の影を落している、あの天主閣の高い屋根がわらがいつまでも、地に落ちないように祈りたいと思う。 しかし、松江の市が自分に与えたものは満足ば・・・ 芥川竜之介 「松江印象記」
わん ある冬の日の暮、保吉は薄汚いレストランの二階に脂臭い焼パンを齧っていた。彼のテエブルの前にあるのは亀裂の入った白壁だった。そこにはまた斜かいに、「ホットサンドウィッチもあります」と書いた、細長い紙が貼・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・「屋根が見えるでしょう――白壁が見えました。」「留まれ。」 その町の端頭と思う、林道の入口の右側の角に当る……人は棲まぬらしい、壊屋の横羽目に、乾草、粗朶が堆い。その上に、惜むべし杉の酒林の落ちて転んだのが見える、傍がすぐ空地の・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・ 七 明眸の左右に樹立が分れて、一条の大道、炎天の下に展けつつ、日盛の町の大路が望まれて、煉瓦造の避雷針、古い白壁、寺の塔など睫を擽る中に、行交う人は点々と蝙蝠のごとく、電車は光りながら山椒魚の這うのに似ている。・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・木立の隙間から倉の白壁がちらちら見える、それが省作の家である。 おとよは今さらのごとく省作が恋しく、紅涙頬に伝わるのを覚えない。「省さんはどうしているかしら、手紙のやりとりばかりで心細くてしようがない。こうしてお家も見えているのに、・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
出典:青空文庫