・・・ 鎌倉ちょう二字は二郎が旧歓の夢を呼び起こしけん、夢みるごときまなざし遠く窓外の白雲をながめてありしが静かに眼を閉じて手を組み、膝を重ねたり。 げに横浜までの五十分は貴嬢がためにも二郎がためにもこの上なき苦悩なりき、二郎には旧歓の哀・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
丘の白雲 大空に漂う白雲の一つあり。童、丘にのぼり松の小かげに横たわりて、ひたすらこれをながめいたりしが、そのまま寝入りぬ。夢は楽しかりき。雲、童をのせて限りなき蒼空をかなたこなたに漂う意ののどけさ、童・・・ 国木田独歩 「詩想」
・・・水は清く澄んで、大空を横ぎる白雲の断片を鮮かに映している。水のほとりには枯蘆がすこしばかり生えている。この池のほとりの径をしばらくゆくとまた二つに分かれる。右にゆけば林、左にゆけば坂。君はかならず坂をのぼるだろう。とかく武蔵野を散歩するのは・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・さればとて故郷の平蕪の村落に病躯を持帰るのも厭わしかったと見えて、野州上州の山地や温泉地に一日二日あるいは三日五日と、それこそ白雲の風に漂い、秋葉の空に飄るが如くに、ぶらりぶらりとした身の中に、もだもだする心を抱きながら、毛繻子の大洋傘に色・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・川を隔てて遥彼方には石尊山白雲を帯びて聳え、眼の前には釜伏山の一トつづき屏風なして立つらなれり。折柄川向の磧には、さしかけ小屋して二、三十人ばかりの男打集い、浅瀬の流れを柵して塞き、大きなる簗をつくらんとてそれそれに働けるが、多くは赤はだか・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・白楊は、垂れかかっている白雲の方へ、長く黒く伸びている。その道を河に沿うて、河の方へ向いて七人の男がゆっくり歩いている。男等の位置と白楊の位置とが変るので、その男等が歩いているという事がやっと知れるのである。七人とも上着の扣鈕をみな掛けて、・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・なるのではないかと思い、深夜、あの手紙を持って野道を三丁ほど、煙草屋の前のポストまで行って来ましたが、ひどく明るい月夜で、雲が、食べられるお菓子の綿のように白くふんわり空に浮いていて、深夜でもやっぱり白雲は浮いて、ゆるやかに流れているのだと・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・自分はそれに答えず縁側の柱に凭れたまま、嵐も名残と吹き散る白雲の空をぼんやり眺めていた。 寺田寅彦 「嵐」
・・・ 雨気を帯びた南風が吹いて、浅間の斜面を白雲が幾条ものひもになってはい上がる。それが山腹から噴煙でもしているように見える。峰の茶屋のある峠の上空に近く、巨口を開いた雨竜のような形をしたひと流れのちぎれ雲が、のた打ちながらいつまでも同じ所・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
・・・霜解け道を踏んで白雲を見ればそれでよい。恐ろしい闇、恐ろしい命と身を悶えた拍子に、氷袋がすべって眼がさめた。怖ろしい夢は破れて平和な静かな冬の日影は斜に障子にさしている。縁に出した花瓶の枯菊の影がうら淋しくうつって、今日も静かに暮れかかって・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
出典:青空文庫