・・・私は、しばらく、かの偽善者の面容を真似ぶ。百千の迷の果、私は私の態度をきめた。いまとなっては、私は、おのが苦悩の歴史を、つとめて厳粛に物語るよりほかはなかろう。てれないように。てれないように。私も亦、地平線のかなた、久遠の女性を見つめている・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・この子は、将来きっと百千の人のかしらに立つ人ゆえ、かならず無礼あってはならぬと、わが子ながらも尊敬、つつしみ、つつしみ、奉仕した。けれども、わが家の事情は、ちがっていた。七ツ、八ツのころより私ずいぶんわびしく、客間では毎夜、祖母をかしらに、・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・朝になると、けろりと忘れている百千の筋書のうちの一つである。それからそれと私は、筋書を、いや、模様を、考える。あらわれては消え、あらわれては消え、ああ早く、眠くなればいいな。眼をつぶるとさまざまの花が、プランクトンが、バクテリヤが、稲妻が、・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・鋭い眼をした主人公が、銀座へ出て片手あげて円タクを呼びとめるところから話がはじまり、しかもその主人公は高まいなる理想を持ち、その理想ゆえに艱難辛苦をつぶさに嘗め、その恥じるところなき阿修羅のすがたが、百千の読者の心に迫るのだ。そうして、その・・・ 太宰治 「めくら草紙」
・・・自分は科学というものの方法や価値や限界などを多少でも暗示する事が却って百千の事実方則を暗記させるより有益だと信じたい。そうすれば今日ほど世人が科学の真面目を誤解するような虞が少なくなり、また一方では科学的の研究心をもった人物を養成するに効果・・・ 寺田寅彦 「方則について」
・・・といい「読むたびにあかず覚ゆ、これ角がまされるところなり」ともいえり。しかもその欠点を挙げて「その集を閲するに大かた解しがたき句のみにてよきと思う句はまれまれなり」といい「百千の句のうちにてめでたしと聞ゆるは二十句にたらず覚ゆ」と評せり。自・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ほんとうに空のところどころマイナスの太陽ともいうように暗く藍や黄金や緑や灰いろに光り空から陥ちこんだようになり誰も敲かないのにちからいっぱい鳴っている、百千のその天の太鼓は鳴っていながらそれで少しも鳴っていなかったのです。私はそれをあんまり・・・ 宮沢賢治 「インドラの網」
・・・「それはたちまち百千のつぶにもわかれ、また集まって一つにもなります」 はちすずめのめぐりはあまり速くてただルルルルルルと鳴るぼんやりした青い光の輪にしか見えませんでした。 野ばらがあまり気が立ち過ぎてカチカチしながら叫びました。・・・ 宮沢賢治 「虹の絵具皿」
・・・運動場ができたら、まるで雀の巣が百千あるようです。しかし、そのワヤワヤワヤはまだいいので、こまるのは体操。ここの体操の先生はいやにリズミカルで、机に向っていると勢よく、「さーア手をあげて! ハッハッハッハッ」とそういう風なのです。「そら! ・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・ ホーマーの詩の百千の句を知っていることのよろこびより、自身の世代の真の歌を、何かの形でうたいうる名のない一人の作家であることのよろこびは、何と謙遜でしかも激しいであろうか。作家は、文化として一般の教養の低いことを怪しまない時代にめぐり・・・ 宮本百合子 「作家と教養の諸相」
出典:青空文庫