・・・やれ、看護婦になっているのを見たの、やれ、妾になったと云う噂があるの、と、取沙汰だけはいろいろあっても、さて突きつめた所になると、皆目どうなったか知れないのです。新蔵は始気遣って、それからまた腹を立てて、この頃ではただぼんやりと沈んでいるば・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・しかし手がかりは皆目つかなかった。疑いは妙に広岡の方にかかって行った。赤坊を殺したのは笠井だと広岡の始終いうのは誰でも知っていた。広岡の馬を躓かしたのは間接ながら笠井の娘の仕業だった。蹄鉄屋が馬を広岡の所に連れて行ったのは夜の十時頃だったが・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・取って返しはしたものの、どうしていいのかその子供には皆目見当がつかないのだ、と彼は思った。 群がり集まって来た子供たちは遠巻きにその一人の子供を取り巻いた。すべての子供の顔には子供に特有な無遠慮な残酷な表情が現われた。そしてややしばらく・・・ 有島武郎 「卑怯者」
・・・と重ねて訊くと、それ以来毎日役所から帰ると処々方々を捜しに歩くが皆目解らない、「多分最う殺されてしまったろう」と悄れ返っていた。「昨日は酒屋の御用が来て、こちらさまのに善く似た犬の首玉に児供が縄を縛り付けて引摺って行くのを壱岐殿坂で見掛けた・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・廻したものだが、私は日本の小説こそ京伝の洒落本や黄表紙、八文字屋ものの二ツ三ツぐらい読んでいたけれど、西洋のものは当時の繙訳書以外には今いったリットンの『ユーゼニ・アラム』だけしか知らず、小説論如きは皆目解らなかったから、『書生気質』こそ下・・・ 内田魯庵 「明治の文学の開拓者」
・・・「でも、俺ら、初めからそんなこた皆目知らんじゃが、なんとかならんかいのう。」彼はどこまでも同じ言葉を繰りかえした。 杜氏は、こういう風にして、一寸した疵を突きとめられ、二三年分の貯金を不有にして出て行った者を既に五六人も見ていた。そ・・・ 黒島伝治 「砂糖泥棒」
・・・ところが、彼自身でやる段になると、そういうことは皆目よくしない。そんなコツをさえもよう会得しない。そのくせ、人の醜悪面を見ては不公平だの、キタないのと云ってこぼして居るのだ。こんな奴は田舎へ行って百姓でもして居る方が柄に合っているのだ。──・・・ 黒島伝治 「自画像」
・・・「銃を持った日にや、薪は皆目かつがれやしねえからな。」「大丈夫かい。二人で?」大西は不安げな顔をした。「うむ、大丈夫さ」 だが、力の強い、鰹船に行っていた川井がすぐ、帯剣だけで立ち上った。 三人は、小屋から外に出た。一面に霜・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・ 裏の崖の上から丘の谷間の様子を見ていた留吉が、「おい、皆目、追い出す者はないが、……宇一の奴、ほんとに裏切りやがったぞ!」 と、小屋の中の健二に呼びかけた。「まだ二十匹も出ていないが……。」「ええ!」健二は自分の豚を出・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・ 京一は、第一、醸造場のいろいろな器具の名前を皆目知らなかった。槽を使う(諸味を醤油袋に入れて搾り槽時に諸味を汲む桃桶を持って来いと云われて見当違いな溜桶をさげて来て皆なに笑われたりした。馴れない仕事のために、肩や腰が痛んだり、手足が棒・・・ 黒島伝治 「まかないの棒」
出典:青空文庫