・・・ 六階で以前のままなものは花卉盆栽を並べた温室である。自分は三越へ来てこの室を見舞わぬ事はめったにない。いつでも何かしら美しい花が見られる。宅の庭には何もなくなった霜枯れ時分にここへ来ると生まれかわったようにいい心持ちがする。一階から五・・・ 寺田寅彦 「丸善と三越」
・・・ 戦争中にも銀座千疋屋の店頭には時節に従って花のある盆栽が並べられた。また年末には夜店に梅の鉢物が並べられ、市中諸処の縁日にも必ず植木屋が出ていた。これを見て或人はわたしの説を駁して、現代の人が祖国の花木に対して冷淡になっているはずはな・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・縁先の敷石の上に置いた盆栽のには一二枚の葉が血のように紅葉したまま残って居た。父が書斎の丸窓外に、八手の葉は墨より黒く、玉の様な其の花は蒼白く輝き、南天の実のまだ青い手水鉢のほとりに藪鶯の笹啼が絶間なく聞えて屋根、軒、窓、庇、庭一面に雀の囀・・・ 永井荷風 「狐」
・・・たまには夜店で掛物をひやかしたり、盆栽の一鉢くらい眺める風流心はあるかも知れない。しかしながら探偵が探偵として職務にかかったら、ただ事実をあげると云うよりほかに彼らの眼中には何もない。真を発揮すると云うともったいない言葉でありますが、まず彼・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・昼間も大抵一人でいた。盆栽の花に水を遣ったり、布団の塵を掃ったり、扉の撮の真鍮を磨いたりする内に、つい日は経ってしもうた。その間、頭の中には、まあ、どんな物があったろう。夢のような何とも知れぬ苦痛の感じが、車の輪の廻るように、頭の中に動いて・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・○二、三年前に不折が使い古しの絵具を貰って、寝て居りながら枕元にある活花盆栽などの写生ということを始めてから、この写生が面白くて堪らないようになった。勿論寝て居ての仕事であるから一寸以上の線を思うように引くことさえ出来ぬので、その拙なさ・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・故意と仕込むのは、植木に盆栽と云う変種を作って悦ぶ人間のわるい小細工としか思われない。世にも胸のわるいのは、欧州婦人がおもちゃにする、小さな、ひよわい、骸骨に手入れの届いた鞣皮を張りつけたような Pocket dog 或は Sleeve d・・・ 宮本百合子 「犬のはじまり」
・・・明治と共に生きた親たちは、一種の人本主義で、盆栽のような人間の拵えかたには興味を感じないたちであった。人間は人間らしく誰にも十分に生きるべきだし、そういう風に生きてよいものなのだという感情は、家庭の空気の様々な変化を貫いて流れていたと思う。・・・ 宮本百合子 「親子一体の教育法」
・・・おゆきが針箱やたち板を出しかけている部屋のそとに濡れ縁があって、ちょいとした空地に盆栽棚がつくられていた。西日のさしこむ軒に竹すだれがかかり、風鈴の赤い短冊がゆれていて、なめたようにきれいな狭い台所口があいていると、裏の田圃が見えた。おゆき・・・ 宮本百合子 「菊人形」
・・・ この卓や寝台の置いてある診察室は、南向きの、一番広い間で、花房の父が大きい雛棚のような台を据えて、盆栽を並べて置くのは、この室の前の庭であった。病人を見て疲れると、この髯の長い翁は、目を棚の上の盆栽に移して、私かに自ら娯むのであった。・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
出典:青空文庫