・・・母から反対に怒鳴つけられたら、どうしようなど思うと、母の剣幕が目先に浮んで来て、足は自と立縮む。「もしどうしても返さなかったら」の一念が起ろうとする時、自分は胸を圧つけられるような気がするのでその一念を打消し打消し歩いた。「大河とみ」の・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・散り布いた、細かな落ち葉はにわかに日に映じてまばゆきまでに金色を放ち、頭をかきむしッたような『パアポロトニク』(蕨の類のみごとな茎、しかも熟えすぎた葡萄めく色を帯びたのが、際限もなくもつれからみつして目前に透かして見られた。 あるいはま・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・天理の自然、生命の法則に従うことは、目前の生活解放権利拡張ということより根本的である。現在の社会ではいわゆる婦人の権利拡張の闘争から手を引くことは、一層鎖を重くすることになるが、理想的国家では、処女性、母性、美容の保護、ならびに、これと矛盾・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・ 倫理学を迂遠であり、机上の空論であるとして軽視するのはただ目先きだけの短見にすぎない。真に社会に善事を成さんとする志有る者は軽忽に実行運動に加わる前に、しばらく意志を抑制して、倫理学を研究する必要があるのである。何が社会的に善事である・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・と、雪をかむった鉄橋が目前に現れてきた。「異状無ァし!」 鉄橋の警戒隊は列車の窓を見上げて叫んだ。「よろしい! 前進。」 そして、列車は轟然たる車輪の響きを高めつゝ橋にさしかゝった。速力は加わったようだった。線路はどこまでも・・・ 黒島伝治 「氷河」
身には疾あり、胸には愁あり、悪因縁は逐えども去らず、未来に楽しき到着点の認めらるるなく、目前に痛き刺激物あり、慾あれども銭なく、望みあれども縁遠し、よし突貫してこの逆境を出でむと決したり。五六枚の衣を売り、一行李の書を典し・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・こんな場合は、目前の、間抜けた弟の一挙手一投足、ことごとくが気にいらなくなってしまうのである。私が両膝をそろえて、きちんと坐り、火鉢から余程はなれて震えていると、「なんだ。おまえは、大臣の前にでも坐っているつもりなのか。」と言って、機嫌・・・ 太宰治 「一燈」
・・・どうしても、この原作者が、目前に遂行されつつある怪事実を、新聞記者みたいな冷い心でそのまま書き写しているとしか思われなくなって来るのであります。すぐつづけて、『この手紙を書いた女は、手紙を出してしまうと、直ぐに町へ行って、銃を売る店を尋・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・ レニンの仕事は科学でないだけに、その人のその仕事の遂行者としてのえらさは必ずしも目前の成果のみで計量する事が出来ない。それにもかかわらずレニンのえらさは一般の世人に分りやすい種類のものである。取扱っているものが人間の社会で、使っている・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・話の筋も場面も実に尋常普通の市井の出来事で、もっとも瘋癲病院の中で酒精中毒の患者の狂乱する陰惨なはずの場面もありはするがいったいに目先の変わりの少ないある意味では退屈な映画である。それだけに、そうしたものをこれだけにまとめ上げてそうしてあま・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
出典:青空文庫