・・・そうして、やっと豊橋の近くまで来た時は、もう一歩も動けず、目の前は真っ白、たまりかねて線路工夫の弁当を盗みました。みつかって、警察へ突き出される覚悟でした。おかしい話ですが、留置所へはいって食う飯のことが目にちらついてならなかった。人間もこ・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・駅の前が真っ白になる。赤い咳が来る。佐伯は青ざめた顔であわただしく咳の音を聴きながらじっと佇んでいる。寂しい一刻だ。暫らくするとまた歩き出す。恢復した視力でやっとアパートの灯が見える。裏口の裸電燈だ。その灯の下に誰かが佇んでいそうに思われる・・・ 織田作之助 「道」
・・・見台の横に番傘をしばりつけ、それで雪を避けている筈だが、黒いマントはしかし真っ白で、眉毛まで情なく濡れ下っていた。雪達磨のようにじっと動かず、眼ばかりきょろつかせて、あぶれた顔だった。人通りも少く、こんな時にいつまでも店を張っているのは、余・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・「眼の前が真っ白になる」と。「青ざめた顔」はむしろ月並みです。しかし、僕は「赤い咳」という表現を出すために白と青を持って来たのです。ここで「赤い」といったのは「恐怖」の表現です。この「赤」は佐伯の頭に喀血の色と見えるのです。 冒頭の一節・・・ 織田作之助 「吉岡芳兼様へ」
・・・二人は気がついてすぐ頭の上を仰ぐと、昼間は真っ白に立ちのぼる噴煙が月の光を受けて灰色に染まって碧瑠璃の大空を衝いているさまが、いかにもすさまじくまた美しかった。長さよりも幅の方が長い橋にさしかかったから、幸いとその欄に倚っかかって疲れきった・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・夕暗に聳える恵那山は真っ白に雪を被っていた。汗ばんだ体は、急に凍えるように冷たさを感じ始めた。彼の通る足下では木曾川の水が白く泡を噛んで、吠えていた。「チェッ! やり切れねえなあ、嬶は又腹を膨らかしやがったし、……」彼はウヨウヨしている・・・ 葉山嘉樹 「セメント樽の中の手紙」
・・・ ちょうど卯の花の真っ白に咲いている垣の間に、小さい枝折戸のあるのをあけてはいって、権右衛門は芝生の上に突居た。光尚が見て、「手を負ったな、一段骨折りであった」と声をかけた。黒羽二重の衣服が血みどれになって、それに引上げのとき小屋の火を・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫