・・・ まさに嫁がんとする娘の、嬉しさと、恥らいと、心遣いと、恐怖と、涙と、笑とは、ただその深く差俯向いて、眉も目も、房々した前髪に隠れながら、ほとんど、顔のように見えた真向いの島田の鬢に包まれて、簪の穂に顕るる。……窈窕たるかな風采、花嫁を・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・――柳を中に真向いなる、門も鎖し、戸を閉めて、屋根も、軒も、霧の上に、苫掛けた大船のごとく静まって、梟が演戯をする、板歌舞伎の趣した、近江屋の台所口の板戸が、からからからと響いて、軽く辷ると、帳場が見えて、勝手は明い――そこへ、真黒な外套が・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・上宮中学の、蔵鷺庵という寺の真向いの路地の二軒目。そして、そこにはもう玉子はいずに、茂子という女が新しい母親になっていて、玉子が残して行ったユキノという私の妹は、新次といっしょに継子になっていました。私はやはり奉公してよかったと思いました。・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・安全剃刀の替刃、耳かき、頭かき、鼻毛抜き、爪切りなどの小物からレザー、ジャッキ、西洋剃刀など商売柄、銭湯帰りの客を当て込むのが第一と店も銭湯の真向いに借りるだけの心くばりも柳吉はしたので、蝶子はしきりに感心し、開店の前日朋輩のヤトナ達が祝い・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・ すぐ真向いの飲食店へさっさとはいった。薄暗い食堂の壁には、すてきに大きい床屋鏡がはめこまれていて、私の顔は黒眼がち、人なつかしげに、にこにこしていた。意外にも福福しい顔であったのだ。一刻も早く酔いしれたく思って、牛鍋を食い散らしながら、ビ・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・篤介がひょいと活動雑誌から頭を擡げ何心なく真向いでそうやっている二人を眺めた。彼等は篤介の存在など目にも入れないらしかった。段々照れて若者らしくペロリ、舌を出し彼は元の雑誌にかじりついてしまった。――片頬笑みが陽子の口辺に漂った。途端、けた・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ 記者の真向いで鰯をかじっていたひとが、「やあ」と、笑い出した。「どうも――これは……」 記者は、今更床几から立上るのも不自然で間誤付きながら、片脚をそろりと床几の下へかくすようにした。「ほかの政党だと、幹部連のえば・・・ 宮本百合子 「風知草」
出典:青空文庫