・・・運命はある真昼の午後、この平々凡々たる家庭生活の単調を一撃のもとにうち砕いた。三菱会社員忍野半三郎は脳溢血のために頓死したのである。 半三郎はやはりその午後にも東単牌楼の社の机にせっせと書類を調べていた。机を向かい合わせた同僚にも格別異・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・ひっそりした真昼の空気の中には、まだ蜂の翅音の名残りが、かすかな波動を残していた。 雌蜘蛛はいつか音もなく、薔薇の花の底から動き出した。蜂はその時もう花粉にまみれながら、蕊の下にひそんでいる蜜へ嘴を落していた。 残酷な沈黙の数秒が過・・・ 芥川竜之介 「女」
・・・ 多大の満足と多少の疲労とを持って、僕たちが何日かを忙しい中に暮らした事務室を去った時、窓から首を出して見たら、泥まみれの砂利の上には、素枯れかかった檜や、たけの低い白楊が、あざやかな短い影を落して、真昼の日が赤々とした鼠色の校舎の羽目には・・・ 芥川竜之介 「水の三日」
・・・ 縞目は、よく分らぬ、矢絣ではあるまい、濃い藤色の腰に、赤い帯を胸高にした、とばかりで袖を覚えぬ、筒袖だったか、振袖だったか、ものに隠れたのであろう。 真昼の緋桃も、その娘の姿に露の濡色を見せて、髪にも、髻にも影さす中に、その瓜実顔・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・それが夜ででもあればだが、真昼中狂気染みた真似をするのであるから、さすがに世間が憚られる、人の見ぬ間を速疾くと思うのでその気苦労は一方ならなかった。かくてともかくにポストの三めぐりが済むとなお今一度と慥めるために、ポストの方を振り返って見る・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・昔の東海道、箱根のお関所を成りたけ早めに越して、臼ころばしから向う阪をさがりに、見ると、河原前の橋を掛けてこの三島の両側に、ちらちら灯が見えようというのでと――どこか、壁張りの古い絵ほどに俤の見える、真昼で、ひっそりした町を指さされたあたり・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・唯、二、三町春の真昼に、人通りが一人もない。何故か憚られて、手を触れても見なかった。緋の毛氈は、何処のか座敷から柳の梢を倒に映る雛壇の影かも知れない。夢を見るように、橋へかかると、これも白い虹が来て群青の水を飲むようであった。あれあれ雀が飛・・・ 泉鏡花 「雛がたり」
・・・ 戸外は真昼のような良い月夜、虫の飛び交うさえ見えるくらい、生茂った草が一筋に靡いて、白玉の露の散る中を、一文字に駈けて行くお雪の姿、早や小さくなって見えまする。 小宮山は蝙蝠のごとく手を拡げて、遠くから組んでも留めんず勢。「お・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・ 僕の家は、病人と痩せッこけの住いに変じ、赤ん坊が時々熱苦しくもぎゃあぎゃあ泣くほかは、お互いに口を聴くこともなく、夏の真昼はひッそりして、なまぬるい葉のにおいと陰欝な空気とのうちに、僕自身の汗じみた苦悶のかげがそッくり湛っているようだ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 四日目である。 真昼の空はからりと晴れて、曇がなかった。日は紅く、河原や、温泉場を照らして山の木々の葉は、ひら/\と笑っていた。此の日、此の村の天川神社の祭礼で、小さな御輿が廻った。笛の音が冴えて、太鼓の音が聞えた。此方の三階から・・・ 小川未明 「渋温泉の秋」
出典:青空文庫