・・・いまはもう、胸がどきどきして顔が赤らむどころか、あんまり苦しくて顔が蒼くなり額に油汗のにじみ出るような気持で、花江さんの取り澄まして差出す証紙を貼った汚い十円紙幣を一枚二枚と数えながら、矢庭に全部ひき裂いてしまいたい発作に襲われた事が何度あ・・・ 太宰治 「トカトントン」
・・・ 誰が!」矢庭に勝治は、われがねの如き大声を発した。「ちくしょう!」どんと床を蹴って、「節子だな? 裏切りやがって、ちくしょうめ!」 恥ずかしさが極点に達すると勝治はいつも狂ったみたいに怒るのである。怒られる相手は、きまって節子だ。風の・・・ 太宰治 「花火」
・・・(矢庭久しぶりの平目じゃないか。お母さんにも、お前にも、みんなに食べてもらいたくて買って来たんだ。それを、なんだ。きたないものみたいにして、気味のわるいものみたいにして、一口も食べてくれないとは、あまり、あんまり、ひどいじゃないか。・・・ 太宰治 「春の枯葉」
・・・ふらふら立ち上って、雨戸に近寄り、矢庭にその手を、私の両手でひたと包み、しかも、心をこめて握りしめちゃった。つづいて、その手に頬ずりしたい夢中の衝動が巻き起って、流石に、それは制御した。握りしめて居るうちに、雨戸の外で、かぼそい、蚊の泣くよ・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・女学校で、生理の時間にいろいろの皮膚病の病原菌を教わり、私は全身むず痒く、その虫やバクテリヤの写真の載っている教科書のペエジを、矢庭に引き破ってしまいたく思いました。そうして先生の無神経が、のろわしく、いいえ先生だって、平気で教えているので・・・ 太宰治 「皮膚と心」
・・・ 主人は、憤激しているようなひどく興奮のていで、矢庭に座敷の畳をあげ、それから床板を起し、床下からウィスキイの角瓶を一本とり出した。「万歳!」と僕は言って、拍手した。 そうして、僕たちはその座敷にあがり込んで乾杯した。「先生、相・・・ 太宰治 「未帰還の友に」
・・・ 私はさすがに、うんざりして、矢庭に彼をぶん殴ってやりたい衝動さえ感じた。 立川で降りて、彼のアパートに到る途中に於いても、彼のそのような愚劣極まる御託宣をさんざん聞かされ、「ここです、どうぞ。」 と、竹藪にかこまれ、荒廃し・・・ 太宰治 「女神」
・・・当時都下の温泉旅館と称するものは旅客の宿泊する処ではなくして、都人の来って酒宴を張り或は遊冶郎の窃に芸妓矢場女の如き者を拉して来る処で、市中繁華の街を離れて稍幽静なる地区には必温泉場なるものがあった。則深川仲町には某楼があり、駒込追分には草・・・ 永井荷風 「上野」
出典:青空文庫