・・・始めは偶然だと思うていたが行くほどに、穴のあるほどに、申し合せたように、左右の穴からもしもしと云う。知らぬ顔をして行き過ぎると穴から手を出して捕まえそうに烈しい呼び方をする。子規を顧みて何だと聞くと妓楼だと答えた。余は夏蜜柑を食いながら、目・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・すると進水式の雑然たる光景を雑然と叙べて知らぬ顔をしている。飛鳥山の花見をかく、踊ったり、跳ねたり、酣酔狼藉の体を写して頭も尾もつけぬ。それで好いつもりである。普通の小説の読者から云えば物足らない。しまりがない。漠然として捕捉すべき筋が貫い・・・ 夏目漱石 「写生文」
・・・、これより以後跳方を倹約しても金剛石が出る訳でもないので、やむをえず夫婦相談の結果、無理算段の借金をした上、巴里中かけ廻ってようやく、借用品と一対とも見違えられる首飾を手に入れて、時を違えず先方へ、何知らぬ顔で返却して、その場は無事に済まし・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・わざわざ立って行って、何でもないといまいましいから、気にかからないではなかったが、やはりちょっと聞耳を立てたまま知らぬ顔ですましていた。その晩寝たのは十二時過ぎであった。便所に行ったついで、気がかりだから、念のため一応縁側へ廻って見ると――・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・血を流しても知らぬ顔をしていることがある。どうかすると、殺されたものがあっても構わぬのである。 寂しい三の木戸の小屋へは、折り折り小萩が遊びに来た。婢の小屋の賑わしさを持って来たかと思うように、小萩が話している間は、陰気な小屋も春めいて・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・僕は人の案内するままに二階へ升って、一間を見渡したが、どれもどれも知らぬ顔の男ばかりの中に、鬚の白い依田学海さんが、紺絣の銘撰の着流しに、薄羽織を引っ掛けて据わっていた。依田さんの前には、大層身綺麗にしている、少し太った青年が恭しげに据わっ・・・ 森鴎外 「百物語」
・・・低い戸の側に、沢の好い、黒い大きい、猫が蹲って、日向を見詰めていて、己が側へ寄っても知らぬ顔をしている。 そこへ弦のある籐の籠にあかすぐりの実を入れて手に持った女中が通り掛かったので、それにこの家は誰が住まっているのだと問うた。「エ・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
出典:青空文庫