・・・わたしは隣りの部屋でも、知らん顔をして寝ているわいなし――ええええ、知らん顔をして」 お新はこんな話をするにも面長な顔を婆やの方へ近く寄せて言った。 そこへ小さな甥の三吉が飛んでやって来た。前の日にこの医院へ来たばかりで種々な眼につ・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・あなたは、いつでも知らん顔をして居りますし、私だって、すぐその角封筒の中味を調べるような卑しい事は致しませんでした。無ければ無いで、やって行こうと思っていたのですもの。いくらいただいた等、あなたに報告した事も、ありません。あなたを汚したくな・・・ 太宰治 「きりぎりす」
・・・が、あいつをだまして、ほんものの貴婦人は、おしっこをする時、しゃがまないものだと教えたのですね、すると、あの馬鹿が、こっそり御不浄でためしてみて、いやもう、四方八方に飛散し、御不浄は海、しかもあとは、知らん顔、御承知でしょうが、ここの御不浄・・・ 太宰治 「眉山」
・・・力学の教科書はこの急所に触れないように知らん顔をしてすましていた。それでも実用上の多くの問題には実際差支えがなかったのである。ところが近代になって電子などというものが発見され、あらゆる電磁気や光熱の現象はこの不思議な物の作用に帰納されるよう・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・ 亀と王蛇とが行き会ってもお互いに知らん顔をしている。蛇にとっては亀は石ころと同様であり、亀にとっては蛇は動く棒切れとえらぶところがないらしい。二つの動物の利害の世界は互いに切り合わない二つの層を形成している。従って敵対もなければ友愛も・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
・・・従って審査委員自身は平気で涼しい顔をしていても、他の同僚が知らん顔をしてはいられなくなるであろう。 今度新聞で報ぜられた事件にしても事実は少しも知らないが、ただ問題となった学位論文が審査を及第通過している以上、その論文がともかくも学術上・・・ 寺田寅彦 「学位について」
・・・その車の入り口のいちばん端にいた浴衣がけの若者が、知らん顔をしてはいたが、片腕でしっかり壁板を突っぱって酔漢がころげ落ちないように垣を作っていた。新青年と旧青年との対照を意外なところで見せられる気がした。 雨気を帯びた南風が吹いて、浅間・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
・・・そばにいた人々はだれも知らん顔をしていた。かえってきまりが悪かった。 午後には海が純粋なコバルト色になった。四月十一日 きょうは復活祭だという。朝飯の食卓には朱と緑とに染めつけたゆで玉子に蝋細工の兎を添えたのが出る。米国人のおば・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・数羽の禿鷹コンドルを壁の根もとに一列につないでおいて、その前方三ヤードくらいの所を紙包みにした肉をさげて通ったが、鳥どもは知らん顔をしていた。そこで肉の包みを鳥から一ヤード以内の床上に置いてみたが、それでもまだ鳥は気がつかなかった。とうとう・・・ 寺田寅彦 「とんびと油揚」
・・・棒が倒れるとそれを飛び越えて見向きもしないで知らん顔をしてのそのそと三四尺も歩いて行ってちょこんとすわる。そういう事をなんべんとなく繰り返すのである。どういう心持ちであるのか全く見当がつかない。 二階に籐椅子が一つ置いてある。その四本の・・・ 寺田寅彦 「ねずみと猫」
出典:青空文庫