・・・嫂はたぶん感づいていても知らん顔をしているけれど、嫂の兄さんがばかに律義な人でね、どこだどこだってしきりに聞くんだ」「そんな秘し隠しをしなくともいいじゃありませんか。別に悪いところにいるというのじゃないし、女を買うわけでもないんですもの・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・シグナレスよりも少し風下にすてきに耳のいい長い長い電信柱がいて、知らん顔をしてすまして空の方を見ながらさっきからの話をみんな聞いていたのです。そこでさっそく、それを東京を経て本線シグナルつきの電信柱に返事をしてやりました。本線シグナルつきの・・・ 宮沢賢治 「シグナルとシグナレス」
・・・何でもおれのきくとこに依ると、あいつらは海岸のふくふくした黒土や、美しい緑いろの野原に行って知らん顔をして溝を掘るやら、濠をこさえるやら、それはどうも実にひどいもんだそうだ。話にも何にもならんというこった。」ラクシャンの第三子もつい・・・ 宮沢賢治 「楢ノ木大学士の野宿」
・・・ 涙は絶えずまぶたに満ちてそれでも人前を知らん顔を仕終せ様とするにはなかなかの骨折で顔が熱くなって帯を結んだあたりに汗がにじむ様だった。 死ぬとか生きるとかと云う事はまるで頭になく只私と仲の良い小さい娘に会いたいと云う心ばっかりに司・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
・・・ 桃龍は知らん顔で卓の上の硯箱をあけ、いたずら描きを始めた。「――近くで見たら、その顔、まあ化物やな」「いやらしおっしゃろほんまに、踊のある間、あてら顔滅茶苦茶やわ……痛い痛いわ、荒れて」「……何や、それ」「ワセリン」・・・ 宮本百合子 「高台寺」
・・・ 母は、私をよく知って居るので、休の時などに、用を多くさせる事等はしないでくれるけれ共、暮と云えば自分から気が落つかないで、母がせかせかして居るのを知らん顔で居るわけには、たのまれないでも出来ず、やっぱりせわしい思をする。 そんな処・・・ 宮本百合子 「午後」
・・・ 私は失笑しそうになったのを辛うやっと知らん顔をする。 だまって顔を見合わせた二人はそそくさと出て行って庭の中で雨にぬれながら押し出された様な声で笑って居た。 又私の居る処へ来て玄関の土間へ声をかける、「どうにかして、も・・・ 宮本百合子 「通り雨」
・・・ 一寸眉を寄せたきりで知らん顔をして居る私を、弟はチラッと見たなり返事もしずに投げてよこすので、私も受け答えをして居るうちに又気が入って、まるで二つの顔を忘れて居ると又孝ちゃんの声が、「君ーッ。と怒鳴るので頭を曲げて見る・・・ 宮本百合子 「二十三番地」
・・・――そりゃ勘が早いんですから、くれぐれも知らん顔でね――ただどうぞ刃物だけは届かないとこへ始末させといて下さい。万一とんでもないことを仕出来したりすると申訳ありませんからね……」 十八日は、空の色が目にしみる快晴であった。五月で、躑躅が・・・ 宮本百合子 「牡丹」
・・・ 大騒ぎだけして一時ケリがつくと、あなた自身上べだけゴマ化し様子を見ていると対手もその間は知らん顔をしているなどというのは、正直に云えば双方で鼻息をうかがう卑屈な態度だと思います。 『働く婦人』を手伝いたい・・・ 宮本百合子 「「我らの誌上相談」」
出典:青空文庫