・・・僕は勿論社会科学に何の知識も持っていなかった。が、資本だの搾取だのと云う言葉にある尊敬――と云うよりもある恐怖を感じていた。彼はその恐怖を利用し、度たび僕を論難した。ヴェルレエン、ラムボオ、ヴオドレエル、――それ等の詩人は当時の僕には偶像以・・・ 芥川竜之介 「彼」
・・・それはなにも監督が不正なことをしていたからではなく会計上の知識と経験との不足から来ているのに相違ないのだが、父はそこに後ろ暗いものを見つけでもしたようにびしびしとやり込めた。 彼にはそれがよく知れていた。けれども彼は濫りなさし出口はしな・・・ 有島武郎 「親子」
・・・曰く、「あらゆる行為の根底であり、あらゆる思索の方針である智識を有せざる彼等文芸家が、少しでも事を論じようとすると、観察の錯誤と、推理の矛盾と重畳百出するのであるが、これが原因を繹ねると、つまり二つに帰する。その一つは彼等が一時の状態を永久・・・ 石川啄木 「性急な思想」
・・・ 山国に育ったから、学問の上の知識はないが……蕈の名の十やら十五は知っている。が、それはまだ見た事がなかった。……それに、私は妙に蕈が好きである。……覗込んで何と言いますかと聞くと「霜こしや。」と言った。「ははあ、霜こし。」――十一月初・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・人間はいかにしてその終焉を全うすべきか、人間は必ず泣いて終焉を告げねばならぬものならば、人間は知識のあるだけそれだけ動物におとるわけである。 老病死の解決を叫んで王者の尊を弊履のごとくに捨てられた大聖釈尊は、そのとき年三十と聞いたけれど・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・特にワグマンについて真面目に伝習したとは思われないが、ブラシの使い方や絵具の用法等、洋画のテクニックの種々の知識を教えられた事はあるようだ。明治八、九年頃の画家番附に淡島椿岳の上に和洋画とあるのを以て推すと、洋画家としてもまた相応に認められ・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・もし私に家族の関係がなかったならば私にも大事業ができたであろう、あるいはもし私に金があって大学を卒業し欧米へ行って知識を磨いてきたならば私にも大事業ができたであろう、もし私に良い友人があったならば大事業ができたであろう、こういう考えは人々に・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・故に、習慣に累せられず、知識に妨げられずに、純鮮なる少年時代の眼に映じた自然より得来た自己の感覚を芸術の上に再現せんとして、努力するのは、蓋し、茲に甚大の意義を有することを知からである。・・・ 小川未明 「感覚の回生」
・・・の谷口さんにそのことを打ち明けると、谷口さんもひどく乗気になってくれて、その翌日弁当ごしらえをして、二人掛りで一日じゅう大阪じゅうを探し歩きましたが、何しろ秋山という名前と、もと拾い屋をしていたという知識だけが頼りですから、まるで雲を掴むよ・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・「僕がそんなマニヤのことを言う以上僕にも多かれ少なかれそんな知識があると思っていいでしょう」 その青年の顔にはわずかばかりの不快の影が通り過ぎたが、そう答えて彼はまた平気な顔になった。「そうだ。いや、僕はね、崖の上からそんな興味・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
出典:青空文庫