・・・ 寿子はそう思って、北向き八幡宮の前まで来ると、境内の方へ外れようとしたが、庄之助はだまって寿子の手をひっぱると、さっさと生国魂神社の石段の方へ連れて行った。 拝殿の前まで来ると、庄之助は賽銭を投げて、寿子に、「日本一のヴァイオ・・・ 織田作之助 「道なき道」
・・・ すっかり暗くなったところで弟は行李を担いで、Fとの二人が茶店の娘に送られて出て行ったが、高い石段を下り建長寺の境内を通ってちょうど門前の往来へ出たかと思われた時分、私はガランとした室に一人残って悲みと寂しさに胸を噛まれる気持で冷めたく・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・ 断片 二 温泉は街道から幾折れかの石段で溪ぎわまで下りて行かなければならなかった。街道もそこまでは乗合自動車がやって来た。溪もそこまでは――というとすこし比較が可笑しくなるが――鮎が上って来た。そしてその乗合自動車・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・豊吉はお花が土蔵の前の石段に腰掛けて唱う唱歌をききながら茶室の窓に倚りかかって居眠り、源造に誘われて釣りに出かけて居眠りながら釣り、勇の馬になッて、のそのそと座敷をはいまわり、馬の嘶き声を所望されて、牛の鳴くまねと間違えて勇に怒られ、家じゅ・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・ 帆前船の暗い影の下をくぐり、徳二郎は舟を薄暗い石段のもとに着けた。「お上がりなさい」と徳は僕を促した。堤の下で「お乗りなさい」と言ったぎり、彼は舟中僕に一語を交じえなかったから、僕はなんのために徳二郎がここに自分を伴のうたのか少し・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
・・・ 夜、一段ひくい納屋の向う側にある便所から帰りに、石段をあがりかけると、僕は、ふと嫂が、窓から顔を出して、苦るしげに、食ったものを吐こうとしている声をきいた。嫂はのどもとへ突き上げて来るものを吐き出してしまおうと、しきりにあせっていた。・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・坂の降り口にある乾き切った石段の横手の芝なぞもそれだ。日頃懇意な植木屋が呉れた根も浅い鉢植の七草は、これもとっくに死んで行った仲間だ。この旱天を凌いで、とにもかくにも生きつづけて来た一二の秋草の姿がわたしの眼にある。多くの山家育ちの人達と同・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・私たちが坂の下の石段を降りるのを足音できき知るほど、もはや三年近くもお徳は私の家に奉公していた。主婦というもののない私の家では、子供らの着物の世話まで下女に任せてある。このお徳は台所のほうから肥った笑顔を見せて、半分子供らの友だちのような、・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・門のそとの石段のうえに立って、はるか地平線を凝視し、遠あかねの美しさが五臓六腑にしみわたって、あのときは、つくづくわびしく、せつなかった。ひきかえして深田久弥にぶちまけ、二人で泣こうか。ばか。薄きたない。間一髪のところで、こらえた。この編上・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・聞えない振りをして森を通り抜け、石段を降り、弁天様の境内を横切り、動物園の前を通って池に出た。池をめぐって半町ほど歩けば目的の茶店である。私は残忍な気持で、ほくそ笑んだ。さっきこの少年が、なあんだ遊びたがっていやがる、と言ったけれど、私の心・・・ 太宰治 「乞食学生」
出典:青空文庫