・・・「今夜はもう出ないのかしら」と、安岡は失望に似た安堵を感じて、ウトウトした。 と、また、昨夜と同じ人間の体温を頬の辺りに感じた。「確かに寝息をうかがってるんだ!」 だが、彼は今までどおりと同じ調子の寝息を、非常な努力のもとに・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・我輩は之を婦人の正当防禦と認め、其気力の慥かならんことを勧告する者なり。記者は前節婦人七去の条に、婬乱なれば去ると記し、婦人が不品行を犯せば其罪直に放逐と宣告しながら、今こゝには打て替り、男子が同一様の罪を犯すときは、婦人は之を怒りもせず怨・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・これは確かに欧文の一特質である。 処が、日本の文章にはこの調子がない、一体にだらだらして、黙読するには差支えないが、声を出して読むと頗る単調だ。啻に抑揚などが明らかでないのみか、元来読み方が出来ていないのだから、声を出して読むには不適当・・・ 二葉亭四迷 「余が翻訳の標準」
・・・その無邪気な間の抜けた顔は慥かに無慾という事を現して居るので、こいつには大に福を与えてやりたかった。自分が福の神であったら今宵この婆さんの内に往て、そっとその枕もとへ小判の山を積んで置いてやるよ、あしたの朝起きて婆さんがどんなに驚くであろう・・・ 正岡子規 「熊手と提灯」
・・・(いいとも、いいとも、確かにおれが引き取そのとき次々に雁が地面に落ちて来て燃えました。大人もあれば美しい瓔珞をかけた女子もございました。その女子はまっかな焔に燃えながら、手をあのおしまいの子にのばし、子供は泣いてそのまわりをはせめぐったと申・・・ 宮沢賢治 「雁の童子」
・・・生活の大河は、その火花のような恋、焔のような愛を包括して怠みなく静かに流れて行く。確かに重大な、人間の霊肉を根本から震盪するものではあっても、人間の裡にある生活力は多くの場合その恋愛のために燃えつきるようなことはなく、却って酵母としてそれを・・・ 宮本百合子 「愛は神秘な修道場」
・・・』 そこで老人確かに覚えがある、わかった、真っ赤になって怒った。『おやッ! 彼奴がわしを見たッて、あの悪党が。彼奴はわしが、そらここにこの糸を拾ったの見ただ、あなた。』 ポケットの底をさぐって、かれは裡から糸の切れくずを引きだし・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・先ず小説なぞを書くものは変人だとは確かに思っている。変人と思うと同時に、気の毒な人だと感じて、protg にしてくれるという風である。それが挨拶をする表情に見えている。木村はそれを厭がりもしないが、無論難有くも思っていない。 丁度近所の・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・途切れたか、途切れなかッたか、風の音に呑まれて、わからないが、まずは確かに途切れたらしい。この間の応答のありさまについてまたつらつら考えれば年を取ッた方はなかなか経験に誇る体があッて、若いのはすこし謹み深いように見えた。そうでしょう、読者諸・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・芽の内に花や実の想像はつかないとしても、その花や実がすでに今準備されつつある事は確かです。今はただできるだけ根を張りできるだけ多く養分を吸い取る事のほかになすべき事はないのです。いよいよ果実が熟した時それがいい味を持っていなくても、私は精い・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫