・・・色の白い顔がいつもより一層また磨きがかかって、かすかに香水のにおいまでさせている容子では、今夜は格別身じまいに注意を払っているらしい。「御待たせして?」 お君さんは田中君の顔を見上げると、息のはずんでいるような声を出した。「なあ・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・現に午過ぎの三時頃には、確かに二階の梯子段の上り口に、誰か蹲っているものがあって、その視線が葭戸越しに、こちらへ向けられているようでしたから、すぐに飛び起きて、そこまで出て行って見ましたが、ただ磨きこんだ廊下の上に、ぼんやり窓の外の空が映っ・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・丁度農場事務所裏の空地に仮小屋が建てられて、爪まで磨き上げられた耕馬が三十頭近く集まった。その中で仁右衛門の出した馬は殊に人の眼を牽いた。 その翌日には競馬があった。場主までわざわざ函館からやって来た。屋台店や見世物小屋がかかって、祭礼・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・何かしら元気がついて、一人の子供が思い切って靴磨きに行く。この収入月にいくらすくなくても五百円になるだろう。いや、新円以後もっとすくなくて、三百円かな。じゃ、二人の子供が行けば六百円だ。親父は失業者だし、おふくろは赤ん坊の世話でかまけている・・・ 織田作之助 「鬼」
・・・明日 大阪駅の前に、ずらりと並んだ靴磨きの群れ、その中に赤井はミネ子とささやかな靴磨きの店を張っていた。 大阪中の寄席は殆んど焼けてしまっていたので、二流の落語家の赤井にはもう稼げる寄席はなかったし、よしんば寄席があって・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・靴磨きをするといっても元手も伝手も気力もない。ああもう駄目だ、餓死を待とうと、黄昏れて行く西の空をながめた途端……。七「……僕のことを想いだして、訪ねて来たわけだな」「へえ」と横堀は笑いながら頭をかいた。今夜の宿が見つか・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ 片一方磨き終ると、豹吉は、「それでええ」「まだ片足すんどらへんがな」「かめへん」 と、金を渡すと、豹吉はこんどは大きい方の少年の方へ、「こっちの足はお前磨け」「…………」「心配するな。金は両足分払ったる」・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・ただそれを磨き出さなければならない。 現代では、日本の新しい女性は科学と芸術とには目を開いたけれども、宗教というものは古臭いものとして捨ててかえりみなかったが、最近になって、またこの人性の至宝ともいうべき宗教を、泥土のなかから拾いあげて・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・ 晩に、どこかへ大隊長が出かけて行く、すると彼は、靴を磨き、軍服に刷毛をかけ、防寒具を揃えて、なおその上、僅か三厘ほどのびている髯をあたってやらなければならなかった。髯をあたれば、顔を洗う湯も汲んできなければならない。…… 少佐殿は・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・独楽に磨きをかけ、買った時には、細い針金のような心棒だったのを三寸釘に挿しかえた。その方がよく廻って勝負をすると強いのだ。もう十二三年も前に使っていたものだが、ひびきも入っていず、黒光りがして、重く如何にも木質が堅そうだった。油をしませたり・・・ 黒島伝治 「二銭銅貨」
出典:青空文庫