・・・男がそう祈願しはじめたのは、彼の生涯のうちでおそらくは一番うっとうしい時期に於いてであった。男は、あれこれと思いをめぐらし、ついにギリシャの女詩人、サフォに黄金の矢を放った。あわれ、そのかぐわしき才色を今に語り継がれているサフォこそ、この男・・・ 太宰治 「葉」
・・・われは隣組常会に於いて決議せられたる事項にそむきし事ただの一度も無之、月々に割り当てられたる債券は率先して購入仕り、また八幡宮に於ける毎月八日の武運長久の祈願には汝等と共に必ず参加申上候わずや、何を以てか我を注意人物となす、名誉毀損なり、そ・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・ わが終生の祈願 天にもとどろきわたるほどの、明朗きわまりなき出世美談を、一篇だけ書くこと。 わが友 ひとこと口走ったが最後、この世の中から、完全に、葬り去られる。そんな胸の奥の奥にしまってい・・・ 太宰治 「碧眼托鉢」
・・・マリアの像の前に、跪いて祈願を凝せるウィリアムが立ち上ったとき、長い睫がいつもより重た気に見えたが、なぜ重いのか彼にも分らなかった。誠は誠を自覚すれどもその他を知らぬ。その夜の夢に彼れは五彩の雲に乗るマリアを見た。マリアと見えたるはクララを・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・ お前が夜更けて、独りその内身の病毒、骨がらみの梅毒について、治療法を考え、膏薬を張り、神々を祈願し、嘆いていることは、まだ極めて少数の赤ん坊より外知らないんだ。 だから、今、お前はその実際の力も、虚勢も、傭兵をも動員して、殺戮本能・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・自分を生かせて呉れるものであると同時に自分を殺すものでもあるその力に働かされて、自分は止まれぬ渇望から、ささやかな努力と祈願とを、芸術の無辺際な創造的威力に捧げているのである。 この間中、田舎に行っていたうち何かで、或る作家が、女性の作・・・ 宮本百合子 「概念と心其もの」
・・・ C先生、斯様にして心に満ちて来る希望と祈願とは、一層此国の婦人の有する権威に羨望を感じさせます。私は、人類として、婦人が、多くの法律的権利を持つ事も、経済的智識を持つ事も政治的権利を持つ事も歓びます。彼女等の生活を忘れない賢さ、其の真・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・真心を以て芸術に参するものは、自己に許された範囲に於て、最大・最高の諧調を見出したいという祈願を、片時も捨てかねるものと思う。然し、仕事に面して、どんなことを仕ようが自分以上にはなれない。自分の内に在るだけの輝きほか、自分を照すものはない。・・・ 宮本百合子 「透き徹る秋」
人類が、生命の本然によりて掛ける祈願の前に、私共は謙譲であり、愛に満ちてありたい。 あらゆる悲惨の彼方へ、あらゆる不正と、邪悪との彼方へ! 其れは利己的な、一寸法師の「我」が探求する事なのではないのだ、と想う。お互の魂・・・ 宮本百合子 「断想」
・・・静謐な祈願である。「天心たかく――まぶたひたと瞑ぢて――気澄み 風も死したり あゝ善良き日かな 双手はわが神の聖膝の上にあらむ」 天心たかく――まぶたひたと瞑ぢて――まぶたひたと瞑ぢて―― 無我の瞬時、魂は自由な飛翔・・・ 宮本百合子 「追慕」
出典:青空文庫