・・・ 神楽坂辺をのすのには、なるほどで以て事は済むのだけれども、この道中には困却した。あまつさえ……その年は何処も陽気が悪かったので、私は腹を痛めていた。祝儀らしい真似もしない悲しさには、柔い粥とも誂えかねて、朝立った福井の旅籠で、むれ際の・・・ 泉鏡花 「栃の実」
・・・五 神楽坂路考 これほどの才人であったが、笑名は商売に忙がしかった乎、但しは註文が難かしかった乎して、縁が遠くてイツまでも独身で暮していた。 その頃牛込の神楽坂に榎本という町医があった。毎日門前に商人が店を出したというほ・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・そしてちょっと考えて、神楽坂の方へとぼとぼ……、その坂下のごみごみした小路のなかに学生相手の小質屋があり、今はそこを唯一のたのみとしているわけだが、しかし質種はない。いろいろ考えた末、ポケットにさしてある万年筆に思い当り、そや、これで十円借・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・先日お友達のところで、(私は神楽坂の寄席で、火鉢とお蒲団あなたのお手紙を読んで、たいへん不愉快の思いをいたしました。そのお友達は、ふたいとこというのでしょうか、大叔父というのでしょうか、たいへんややこしく、それでも、たしかに血のつながりでご・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・ただこの頃折々牛込の方へ出ると神楽坂上の紙屋の店へ立寄って話し込んでいる事がある。この紙屋というのは竹村君と同郷のもので、主人とは昔中学校で同級に居た事がある。いつか偶然に出くわしてからは通りがかりに声を掛けていたが、この頃では寄るとゆるゆ・・・ 寺田寅彦 「まじょりか皿」
・・・少々ばつは悪かったようなものの昨夜の心配は紅炉上の雪と消えて、余が前途には柳、桜の春が簇がるばかり嬉しい。神楽坂まで来て床屋へ這入る。未来の細君の歓心を得んがためだと云われても構わない。実際余は何事によらず露子の好くようにしたいと思っている・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
小石川――目白台へ住むようになってから、自然近いので山伏町、神楽坂などへ夜散歩に出かけることが多くなった。元、椿山荘のあった前の通りをずっと、講釈場裏の坂へおり、江戸川橋を彼方に渡って山伏町の通りに出る。そして近頃、その通・・・ 宮本百合子 「茶色っぽい町」
・・・去年はフダーヤと暁の三時頃神楽坂で買物をした。正月元日。 朝のうち曇って居たが午近く快晴。くに、奇麗な髪で、おめでとうを述ぶ。自分達も改まった装はしたが一向正月らしからず。山の奥だから何だかぱっとしないのか、宿屋の風がそうなのか・・・ 宮本百合子 「湯ヶ島の数日」
出典:青空文庫