・・・ 弘安五年九月、秋風立ち初むるころ、日蓮は波木井氏から贈られた栗毛の馬に乗って、九年間住みなれた身延を立ち出で、甲州路を経て、同じく十八日に武蔵国池上の右衛門太夫宗仲の館へ着いた。驢馬に乗ったキリストを私たちは連想する。日蓮はこの栗毛の・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・たゞ、それらの文学と深い関係のある、或る意味ではその先覚者と目される正岡子規の、日清戦争に従軍した際の句に、行かばわれ筆の花散る処までいくさかな、われもいでたつ花に剣秋風の韓山敵の影もなし 等があるばかりである。・・・ 黒島伝治 「明治の戦争文学」
・・・朝顔を秋草というは、いつの頃から誰の言い出したことかは知らないが、梅雨あけから秋風までも味わせて呉れるこんな花もめずらしいと思う。わたしがこれを書いているのは九月の十二日だ。新涼の秋気はすでに二階の部屋にも満ちて来た。この一夏の間、わたしは・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・事を叙したものであって、放課後、余人ひとりいないガランとした校舎、たそがれ、薄暗い音楽教室で、男の教師と、それから主人公のかなしく美しい女のひとと、ふたりきりひそひそ世の中の話を語っているのであるが、秋風が無人の廊下をささと吹き過ぎて、いず・・・ 太宰治 「音に就いて」
・・・心が高潔だったので、実物よりも何層倍となく美しい顔を画き、しかもその画には秋風のような断腸のわびしさがにじみ出て居りました。画はたいへん実物の特徴をとらえていて、しかもノオブルなのです。どうも、ことしの正月あたりから、こう、泣癖がついてしま・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・けれど七、八里を隔てたこの満洲の野は、さびしい秋風が夕日を吹いているばかり、大軍の潮のごとく過ぎ去った村の平和はいつもに異ならぬ。 「今度の戦争は大きいだろう」 「そうさ」 「一日では勝敗がつくまい」 「むろんだ」 今の・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・と呼ぶ秋風がすぐそばの竹やぶをおののかせて棉畑に吹きおろしていたような気がする。 採集した綿の中に包まれている種子を取り除く時に、「みくり」と称する器械にかける。これは言わば簡単なローラーであって、二つの反対に回る樫材の円筒の間隙に棉実・・・ 寺田寅彦 「糸車」
・・・七月になりかかると、秋風が立ち初める、とギバの難は影を隠してしまう。武州常州あたりでもやはり四月から七月と言っている」。また晴天には現われず「晴れては曇り曇っては晴れる、村雲などが出たりはいったりする日に限って」現われるとある。また一日じゅ・・・ 寺田寅彦 「怪異考」
・・・朝夕の秋風身にしみわたりて、上清が店の蚊遣香懐炉灰に座をゆづり、石橋の田村やが粉挽く臼の音さびしく、角海老が時計の響きもそぞろ哀れの音を伝へるやうになれば、四季絶間なき日暮里の火の光りもあれが人を焼く烟かとうら悲しく、茶屋が裏ゆく土手下の細・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・全篇の題は紅蓼白蘋録というので挿入した絶句の中には、已見秋風上二白蘋一。 〔已に見る秋風 白蘋に上り 青衫又汚二馬蹄塵一。 青衫又た馬蹄の塵に汚る月明今夜消魂客。 月明るく 今夜 消魂の客昨日紅楼爛酔人。 ・・・ 永井荷風 「夏の町」
出典:青空文庫