・・・ 女の言葉は穏やかだった。皮肉らしい調子なぞは、不思議なほど罩っていなかった。それだけまたお蓮は何と云って好いか、挨拶のしように困るのだった。「つきましては今日は御年始かたがた、ちと御願いがあって参りましたんですが、――」「何で・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・ こう矢継ぎ早やに尋ねられるに対して、若い監督の早田は、格別のお世辞気もなく穏やかな調子で答えていたが、言葉が少し脇道にそれると、すぐ父からきめつけられた。父は監督の言葉の末にも、曖昧があったら突っ込もうとするように見えた。白い歯は見せ・・・ 有島武郎 「親子」
・・・殊に色白なその頬は寝入ってから健康そうに上気して、その間に形よく盛り上った小鼻は穏やかな呼吸と共に微細に震えていた。「クララの光の髪、アグネスの光の眼」といわれた、無類な潤みを持った童女にしてはどこか哀れな、大きなその眼は見る事が出来なかっ・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・渠らのある者は沈痛に、ある者は憂慮わしげに、はたある者はあわただしげに、いずれも顔色穏やかならで、忙しげなる小刻みの靴の音、草履の響き、一種寂寞たる病院の高き天井と、広き建具と、長き廊下との間にて、異様の跫音を響かしつつ、うたた陰惨の趣をな・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・省作は玉から連想して、おとよさんの事を思い出し、穏やかな顔に、にこりと笑みを動かした。「あるある、一人ある。おとよさんが一人ある」 省作はこうひとり言にいって、竜の髭の玉を三つ四つ手に採った。手のひらに載せてみて、しみじみとその美し・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・幾度見ても寝顔は穏やかに静かで、死という色ざしは少しもない。妻は相変わらず亡き人の足のあたりへ顔を添えてうつぶしている。そうしてまたしばしば起きてはわが子の顔を見まもるのであった。お通夜の人々は自分の仕振りに困じ果ててか、慰めの言葉もいわず・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・ 遥かに聞ゆる九十九里の波の音、夜から昼から間断なく、どうどうどうどうと穏やかな響きを霞の底に伝えている。九十九里の波はいつでも鳴ってる、ただ春の響きが人を動かす。九十九里付近一帯の村落に生い立ったものは、この波の音を直ちに春の音と感じ・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・その日は風もなく、波も穏やかな日であったから、沖のかなたはかすんで、はるばると地平線が茫然と夢のようになって見えました。白い雲が浮かんでいるのが、島影のようにも、飛んでいる鳥影のようにも見えたのであります。 お姉さまは、いい声でうたいな・・・ 小川未明 「赤い船」
・・・ 海はますます穏やかに見えたのです。 そして日の光は、ますますうららかに輝いたのでした。 あくる日もまた、二郎は砂山の上へやってきました。 そして、熱心に笛を吹いていますと、一つ一つの穴から出るものは、影も形もない音ではなく・・・ 小川未明 「赤い船のお客」
・・・五 ほんとうに穏やかな晩のことです。おじいさんとおばあさんは、戸を閉めて、寝てしまいました。 真夜中ごろでありました。トン、トン、と、だれか戸をたたくものがありました。年寄りのものですから耳さとく、その音を聞きつけて、だ・・・ 小川未明 「赤いろうそくと人魚」
出典:青空文庫