・・・彼はすぐに立ち上ると、真鍮の手すりに手を触れながら、どしどし梯子を下りて行った。 まっすぐに梯子を下りた所が、ぎっしり右左の棚の上に、メリヤス類のボオル箱を並べた、手広い店になっている。――その店先の雨明りの中に、パナマ帽をかぶった賢造・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・穂積中佐はその機会に、ひとり椅子から立ち上ると、会場の外へ歩み去った。 三十分の後、中佐は紙巻を啣えながら、やはり同参謀の中村少佐と、村はずれの空地を歩いていた。「第×師団の余興は大成功だね。N閣下は非常に喜んでいられた。」 中・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・彼はやっと立ち上ると、思わず大声に泣きはじめた。敵味方の少年はこの騒ぎにせっかくの激戦も中止したまま、保吉のまわりへ集まったらしい。「やあ、負傷した」と云うものもある。「仰向けにおなりよ」と云うものもある。「おいらのせいじゃなあい」と云うも・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・と答えながら、鉄の鞭をとって立ち上ると、四方八方から二匹の馬を、未練未釈なく打ちのめしました。鞭はりゅうりゅうと風を切って、所嫌わず雨のように、馬の皮肉を打ち破るのです。馬は、――畜生になった父母は、苦しそうに身を悶えて、眼には血の涙を浮べ・・・ 芥川竜之介 「杜子春」
・・・すると今まで身動きもしなかった新蔵が、何と思ったか突然立ち上ると、凄じく血相を変えたまま、荒れ狂う雨と稲妻との中へ、出て行きそうにするじゃありませんか。しかもその手には、いつの間にか、石切りが忘れて行ったらしい鑿を提げているのです。これを見・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ しかし今でもこの町に行く人があれば春でも夏でも秋でも冬でもちょうど日がくれて仕事が済む時、灯がついて夕炊のけむりが家々から立ち上る時、すべてのものが楽しく休むその時にお寺の高い塔の上から澄んだすずしい鐘の音が聞こえて鬼であれ魔であれ、・・・ 有島武郎 「燕と王子」
・・・お光はその前に坐って、影も薄そうなションボリした姿で、線香の煙の細々と立ち上るのをじっと眺めているところへ、若衆の為さんが湯から帰って来た。「お上さん、お寂しゅうがしょうね。私にもどうかお線香を上げさしておくんなさい」 お光は黙って・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・と畳みたる枕を抱えながら立ち上る。そんなことを言わずに、これ、出してくれよと下から出れば、ここぞという見得に勇み立ちて威丈高に、私はお湯に参ります。奥村さんに出しておもらいなさいまし。 三 御散歩ですか。と背後より声・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・秋の空澄み渡って三里隔つる元越山の半腹からまっすぐに立ち上る一縷の青煙すら、ありありと目に浮かんで来る。そこで自分は当時の日記を出して、かしこここと拾い読みに読んではその時の風光を思い浮かべていると『兄さんお宅ですか』と戸外から声を掛け・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・ 女星は早くも詩人が庭より立ち上る煙を見つけ、今宵はことのほか寒く、天の河にも霜降りたれば、かの煙たつ庭に下りて、たき火かきたてて語りてんというに、男星ほほえみつ、相抱きて煙たどりて音もなく庭に下りぬ。女星の額の玉は紅の光を射、男星のは・・・ 国木田独歩 「星」
出典:青空文庫