・・・ やがて善ニョムさんは、ソロソロ立ち上ると、肥笊に肥料を分けて、畑の隅から、麦の芽の一株ずつに、撒きはじめた。「ナァ、ホイキタホイ、ことしゃあ豊年、三つ蔵たてて、ホイキタホイ……」 一握り二株半――おかみの暦は変っても、肥料の加・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・河を隔てて木の間隠れに白くひく筋の、一縷の糸となって烟に入るは、立ち上る朝日影に蹄の塵を揚げて、けさアーサーが円卓の騎士と共に北の方へと飛ばせたる本道である。「うれしきものに罪を思えば、罪長かれと祈る憂き身ぞ。君一人館に残る今日を忍びて・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・と手にしたる盃を地に抛って、夜鴉の城主は立ち上る。盃の底に残れる赤き酒の、斑らに床を染めて飽きたらず、摧けたるこうへんと共にルーファスの胸のあたりまで跳ね上る。「夜迷い烏の黒き翼を、切って落せば、地獄の闇ぞ」とルーファスは革に釣る重き剣に手・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・雑誌『新日本文学』は、人から人へ、都会から村へ、海から山へと、苦難を経た日本の文学が、いまや新しい歩調でその萎えた脚から立ち上るべき一つのきっかけを伝えるものとして発刊される。私たち人民は生きる権利をもっている。生きるということは、単に生存・・・ 宮本百合子 「歌声よ、おこれ」
・・・ 頭は火の様にほてって体はブルブル身ぶるいの出るのをジッとこらえて男は立ち上る拍子にわきに何の音もさせずに立って居たお龍を見た。男は前よりも一層かおを赤くしすぐ死人よりも青いかおになってうるんでふるえる目でジッと娘のかおを見つめた。娘も・・・ 宮本百合子 「お女郎蜘蛛」
・・・同時に、この期間は、呆然自失していた旧権力がおのれをとり戻し、そろそろ周囲を見まわして、自分がつかまって再び立ち上る手づるは何処にあるかという実体を発見した時期でもあった。資本の利害と打算は国際的であって、ファシズムの粉砕、世界の永続的な平・・・ 宮本百合子 「三年たった今日」
・・・革命前までロシアの労働者の飲みようと来たら底なしで、寒ぢゅう襯衣まで飲んで凍え死ぬもんがよくあった。立ち上ることを恐れた。そこで酒で麻痺させたんだ。おまけにツァーはそのウォツカの税でうんと儲けて居た。革命後プロレタリアートは自分の完全な主人・・・ 宮本百合子 「正月とソヴェト勤労婦人」
・・・デクレスは最後に席を蹴って立ち上ると、慰撫する傍のネー将軍に向って云った。「陛下は気が狂った。陛下は全フランスを殺すであろう。万事終った。ネー将軍よ、さらばである」 ナポレオンはデクレスが帰ると、忿懣の色を表してひとり自分の寝室へ戻・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・ 安次は急に庭から立ち上ると、「秋公、こら、秋公。」と大声で呼び出した。 勘次は秋三に逢いたくはなかった。「安次か、えらく年寄ったやないか。」と彼は安次の呼び声を遮った。「うん、こう鼻たれるようになったらもうあかん。帰れ・・・ 横光利一 「南北」
・・・ 農婦は場庭の床几から立ち上ると、彼の傍へよって来た。「馬車はいつ出るのでござんしょうな。悴が死にかかっていますので、早よ街へ行かんと死に目に逢えまい思いましてな。」「そりゃいかん。」「もう出るのでござんしょうな、もう出るっ・・・ 横光利一 「蠅」
出典:青空文庫