・・・そこらの林や、立木が遠い山を中心に車窓の前をキリ/\廻転して行った。いつか、列車は速力をゆるめた。と、雪をかむった鉄橋が目前に現れてきた。「異状無ァし!」 鉄橋の警戒隊は列車の窓を見上げて叫んだ。「よろしい! 前進。」 そし・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・道で見た二三本の立木は、大きく、不細工に、この陰気な平地に聳えている。丁度森が歩哨を出して、それを引っ込めるのを忘れたように見える。そこここに、低い、片羽のような、病気らしい灌木が、伸びようとして伸びずにいる。 二人の女は黙って並んで歩・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・ゆる手品の種明かし、樹皮下に肉桂を注射して立木を枯らす法などもある。 こういう種類の資料は勿論馬琴にもあり近松でさえ無くはないであろうが、ただこれが西鶴の中では如何にもリアルな実感をもって生きて働いている。これは著者が特にそうした知識に・・・ 寺田寅彦 「西鶴と科学」
・・・雨に湿った園内は人影まれで静かである。立ち木の枝に鴉の巣がところどころのっかっている。裏のほうでゴロゴロと板の上を何かころがすような音がしている。行って見るとインド人が四人、ナインピンスというのだろう、木の球をころがして向こうに立てた棍棒の・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・暗澹たる空は低く垂れ、立木の梢は雲のように霞み渡って居ながら、紛々として降る雪、満々として積る雪に、庭一面は朦朧として薄暮よりも明かった。母と二人、午飯を済まして、一時も過ぎ、少しく待ちあぐんで、心疲れのして来た時、何とも云えぬ悲惨な叫声。・・・ 永井荷風 「狐」
・・・ * * * 余が廿貫目の婆さんに降参して自転車責に遇ってより以来、大落五度小落はその数を知らず、或時は石垣にぶつかって向脛を擦りむき、或る時は立木に突き当って生爪を剥がす、その苦戦云・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・囀ろうともせず、こせついた羽づくろいをしようともせず、立木の中の最も高い頂に四辺を眺めて居る小鳥の姿は、一種気稟あるもののように見えた。じっと動かない焦点が出来た為、私の瞳は、始めて動くともなく動いて行く白雲の流れにとまった。雄々しい小禽と・・・ 宮本百合子 「餌」
・・・一本の立木さえ生きのこっていることが出来なかった当時の有様を髣髴として、砲弾穴だけのところに薄に似た草がたけ高く生えている。 目の及ぶかぎりに沈黙が領している。少し出て来た風にその薄のような草のすきとおった白い穂がざわめく間を、エンジン・・・ 宮本百合子 「女靴の跡」
・・・ 何かが心の上におっかぶさって来る様な気がして出窓から青々して勢の好い立木を見て居た。 かなり長い間しゃくり上げて居たさきは、ようやっと前髪をかきあげながら、「もうやめましてございます。 せめて新らしい女が馴れるまで置いてい・・・ 宮本百合子 「蛋白石」
・・・ 一日中書斎に座って、呆んやり立木の姿や有難い本の列などを眺めながら、周囲の沈んだ静けさと、物懶さに連れて、いつとはなし今自分の座って居る丁度此の処に彼の体の真中頃を置いて死に掛った叔父の事を思い出して居た。 私が七つの時に叔父は死・・・ 宮本百合子 「追憶」
出典:青空文庫