・・・池には竹垣をめぐらしてある。東の方の入口に木戸を作ってあるのが、いつかこわれてあけ放しになってる。ここからはいったものに違いない。せめてこの木戸でもあったらと切ない思いが胸にこみあげる。連日の雨で薄濁りの水は地平線に平行している。ただ静かに・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・その庭の片端の僕の方に寄ってるところは、勝手口のあるので、他の方から低い竹垣をもって仕切られていて、そこにある井戸――それも僕の座敷から見える――は、僕の家の人々もつかわせてもらうことになっている。 隣りの家族と言っては、主人夫婦に子供・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・上れるだけ一足でも高く、境に繞らす竹垣の根まで、雑木の中をむりやりに上って、小松の幹を捉えて息を吐く。 白帆が見える。池のごとくに澄みきった黄昏の海に、白帆が一つ、動くともなく浮いている。藤さんの船に違いない。帆のない船はみんな漁船であ・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・起きあがって雨戸を繰りあけ、見ると隣りの家の竹垣にむすびつけられている狆が、からだを土にこすりつけて身悶えしていた。三郎は、騒ぐな、と言って叱った。狆は三郎の姿をみとめて、これ見よがしに土にまろび竹垣を噛み、ひとしきり狂乱の姿をよそおい、き・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・毎日通り掛りに店の様も見れば、また阪の方に開いた裏口の竹垣から家内の模様もいつとなく知られる。主人はもう五十を越した、人の好さそうな男であるが、主婦はこれも五十近所で、皮膚の蒼黄色い何処となく険のあるいやな顔だと始め見た時から思った。主人夫・・・ 寺田寅彦 「やもり物語」
・・・人家の中には随分いかめしい門構に、高くセメントの塀を囲らしたところもあるが、大方は生垣や竹垣を結んだ家が多いので、道行く人の目にも庭や畠に咲く花が一目に見わたされる。そして垣の根方や道のほとりには小笹や雑草が繁り放題に繁っていて、その中には・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・ 今朝方、暁かけて、津々と降り積った雪の上を忍び寄り、狐は竹垣の下の地を掘って潜込んだものと見え、雪と砂とを前足で掻乱した狼藉の有様。竹構の中は殊更に、吹込む雪の上を無惨に飛散るの羽ばかりが、一点二点、真赤な血の滴りさえ認められた。・・・ 永井荷風 「狐」
・・・堤の上は大門近くとはちがって、小屋掛けの飲食店もなく、車夫もいず、人通りもなく、榎か何かの大木が立っていて、その幹の間から、堤の下に竹垣を囲し池を穿った閑雅な住宅の庭が見下された。左右ともに水田のつづいた彼方には鉄道線路の高い土手が眼界を遮・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・ 暗い丈夫そうな門に「質屋」と書いてある。これは昔からいやな感じがする処だ。 竹垣の内に若木の梅があってそれに豆のような実が沢山なって居るのが車の上から見える。それが嬉しくてたまらぬ。 狸横町の海棠は最う大抵散って居た。色の褪せ・・・ 正岡子規 「車上の春光」
・・・ 一九二二年の春のころ、わたしは青山の石屋の横丁をはいった横通りの竹垣のある平べったいトタン屋根の家に住んでいた。ある日、その家の古びた客間へスカンジナヴィア文学の翻訳家である宮原晃一郎さんが訪ねて来られた。そして、北海道の小樽新聞へつ・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第二巻)」
出典:青空文庫