・・・いくらかその人を見直す気になり、ぼそんと笑ったときのその人の、びっくりするほど白い歯を想いだし、なんと上品な笑顔だったかと無理に自分に言いきかせて、これあるがために私も救われると、そんな生意気な表現を心に描いたのだった。私はそれまで男の人に・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・ Kは斯う警戒する風もなく、笑顔を見せて迎えて呉れると、彼は初めてほっとした安心した気持になって、ぐたりと坐るのであった。それから二人の間には、大抵次ぎのような会話が交わされるのであった。「……そりゃね、今日の処は一円差上げることは・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・と、久し振りに笑顔を見せました。 其夜半から看護婦が来ました。看護婦は直ぐ病人の傍へ行って脈をはかり、験温などしました。そして、いきなり本当の病状を喋って仕舞いました。この時脈は百三十を越して、時々結滞あり、呼吸は四十でした。すると、病・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・彼らの眼は一度でも青年達の方を見るのでもなければ、お互いに見交わすというのでもなく、絶えず笑顔を作って女の方へ向いていた。「ポーリンさんにシマノフさん、いらっしゃい」 ウエイトレスの顔は彼らを迎える大仰な表情でにわかに生き生きし出し・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・と罪なげに笑う。笑顔の匂いは言わん方なし。 親子、国色、東京のもの、と辰弥は胸に繰り返しつつ浴場へと行きぬ。あとより来るは布袋殿なり。上手に一つ新しく設らえたる浴室の、右と左の開き扉を引き開けて、二人はひとしく中に入りぬ。心も置かず話し・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・できないが女房がいれば世話もしてもらえる店で商売もできるというものだ、そうじゃアないか』と、もっともなる事を言われて、二十八歳の若者、これが普通ならば別に赤い顔もせず何分よろしくとまじめで頼まぬまでも笑顔でうけるくらいはありそうなところなれ・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・そんな時、彼等は、頭を下げ、笑顔を作って、看護卒の機嫌を取るようなことを云った。その態度は、掌を引っくりかえしたように、今、全然見られなかった。上等兵の表情には、これまで、病院で世話になったことのないあかの他人であるような意地悪く冷酷なとこ・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ 女はちょっと笑顔をしてのんだ。彼は銚子を下に置かずに注いでやった。女は飲むたびに、「本当?」ときいた。「この章魚も、さかなも食っていいんだ」 彼は割箸をわって、皿の上に置いた。「いいの?――何んだか……」 女は少し顔を・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・このお徳は台所のほうから肥った笑顔を見せて、半分子供らの友だちのような、慣れ慣れしい口をきいた。「次郎ちゃん、いい家があって?」「だめ。」 次郎はがっかりしたように答えて、玄関の壁の上へ鳥打帽をかけた。私も冬の外套を脱いで置いて・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・そしてなぜ見せている笑顔か知れない笑顔を眺めた。青年はその笑顔に励まされて、感動したような様子で、手に持った帽をまた被って、老人の肩に手をかけて、自分の青ざめた、今叫んだので少し赤くなった顔を、老人の顔に近く寄せて、暫く目を見合せた。そして・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
出典:青空文庫