・・・皆に囲まれて籐椅子に坐って、ああ、あのときの井伏さんの不安の表情。私は忘れることが出来ない。それから、どうなったか、私には、正確な記憶が無い。 井伏さんも酔わず、私も酔わず、浅く呑んで、どうやら大過なく、引き上げたことだけはたしかである・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・海浜の宿の籐椅子に、疲れ果てた細長いからだを埋めて、まつげの長い大きい眼を、まぶしそうに細めて海を見ている。蓬髪は海の風になぶられ、品のよい広い額に乱れかかる。右頬を軽く支えている五本の指は鶺鴒の尾のように細長くて鋭い。そのひとの背後には、・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・終日籐椅子に寝そべり、朝夕軽い散歩をする。一週間に一度ずつ東京から医者が来る。その生活が二カ月ほどつづいて、八月の末、文藝春秋を本屋の店頭で読んだところが、あなたの文章があった。「作者目下の生活に厭な雲ありて、云々。」事実、私は憤怒に燃えた・・・ 太宰治 「川端康成へ」
・・・ほどなく暑中休暇にはいり、東京から二百里はなれた本州の北端の山の中にある私の生家にかえって、一日一日、庭の栗の木のしたで籐椅子にねそべり、煙草を七十本ずつ吸ってぼんやりくらしていた。馬場が手紙を寄こした。 拝啓。 死ぬことだけは、待・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・ いま庭の草むしっている家人の姿を、われ籐椅子に寝ころんだまま見つめて、純白のホオムドレス、いよいよ看護婦に似て来たな、と可哀そうに思っています。わが家の悪癖、かならず亭主が早死して、一時は、曾祖母、祖母、母、叔母、と四人の後家さんそろ・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・歯をみがき、洗顔し、そのつぎに縁側の籐椅子に寝て、家人の洗濯の様をだまって見ていた。盥の水が、庭のくろ土にこぼれ、流れる。音もなく這い流れるのだ。水到りて渠成る。このような小説があったなら、千年万年たっても、生きて居る。人工の極致と私は呼ぶ・・・ 太宰治 「めくら草紙」
・・・君は部屋の縁側の籐椅子に腰をおろして、煙草をやる。煙草は、ふんぱつして、Camel だ。紅葉の山に夕日があたっている。しばらくして、女は風呂からあがって来る。縁側の欄干に手拭を、こうひろげて掛けるね。それから、君のうしろにそっと立って、君の・・・ 太宰治 「雌に就いて」
・・・ 健康とそれから金銭の条件さえ許せば、私も銀座のまんなかにアパアト住いをして、毎日、毎日、とりかえしのつかないことを言い、とりかえしのつかないことを行うべきでもあろうと、いま、白砂青松の地にいて、籐椅子にねそべっているわが身を抓っている・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・ 窓際の籐椅子に腰かけて、正面に聳える六百山と霞沢山とが曇天の夕空の光に照らされて映し出した色彩の盛観に見惚れていた。山頂近く、紺青と紫とに染められた岩の割目を綴るわずかの紅葉はもう真紅に色づいているが、少し下がった水準ではまだようやく・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・ 夜は中庭の籐椅子に寝て星と雲の往来を眺めていると時々流星が飛ぶ。雲が急いだり、立止まったり、消えるかと思うとまた現われる。大きな蛾がいくつとなくとんで来て垣根の烏瓜の花をせせる。やはり夜の神秘な感じは夏の夜に尽きるようである。・・・ 寺田寅彦 「夏」
出典:青空文庫