・・・鼠色の唐艸や十六菊の中に朱の印を押した十円札は不思議にも美しい紙幣である。楕円形の中の肖像も愚鈍の相は帯びているにもせよ、ふだん思っていたほど俗悪ではない。裏も、――品の好い緑に茶を配した裏は表よりも一層見事である。これほど手垢さえつかずに・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・今も申し上げた通り、私たちは新民屯へ、紙幣を取り換えに出かけて来たのです。御覧下さい。ここに紙幣もあります。」 髯のある男は平然と、将校たちの顔を眺め廻した。参謀はちょいと鼻を鳴らした。彼は副官のたじろいだのが、内心好い気味に思われたの・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・そこでその日も母親が、本所界隈の小売店を見廻らせると云うのは口実で、実は気晴らしに遊んで来いと云わないばかり、紙入の中には小遣いの紙幣まで入れてくれましたから、ちょうど東両国に幼馴染があるのを幸、その泰さんと云うのを引張り出して、久しぶりに・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ しかし、さもしいようではあるが、それには廻廊の紙幣がある。 その時、ちと更まるようにして答えたのが、「私は、手品をいたします。」 近頃はただ活動写真で、小屋でも寄席でも一向入りのない処から、座敷を勤めさして頂く。「ちょ・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・ほかのものであるならば、紙幣を焼いたならば紙幣を償うことができる、家を焼いたならば家を建ててやることもできる、しかしながら思想の凝って成ったもの、熱血を注いで何十年かかって書いたものを焼いてしまったのは償いようがない。死んだものはモウ活き帰・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・旧紙幣の通用するうちに、式をあげた方がいいだろうと説き伏せると、彼も漸く納得して、二月の末日、やっと式ということになった。 仲人の私は花嫁側と一緒に式場で待っていたが、約束の時間が二時間たっても、彼は顔を見せない。 私はしびれを切ら・・・ 織田作之助 「鬼」
・・・ そして天下茶屋のアパートの前へ車をつけると、シートの上へ倒れていた彼はむっくり起き上って、袂の中から五円紙幣を掴み出すと、それをピリッと二つに千切って、その半分を運転手に渡した。そして、何ごともなかったように、アパートの中へはいって行・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・そしてぐったりして帰って来た手には三枚の紙幣を握っていた。が、調べてみると、三枚とも証紙の貼ってない旧円だった。葉子はわっと泣き出した。 次の夜また出掛けた。男がからかいに来ると、葉子は、「いやです、いやです、旧円はいやです」・・・ 織田作之助 「報酬」
・・・ 紙幣の束が三ツ、他に書類などが入っている。星光にすかしてこれを見た時、その時自分は全たく夢ではないかと思っただけで、それを自分が届け出るとか、横奪することが破廉恥の極だとか、そういうことを考えることは出来なかった。 ただ手短かに天・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
一 彼の出した五円札が贋造紙幣だった。野戦郵便局でそのことが発見された。 ウスリイ鉄道沿線P―の村に於ける出来事である。 拳銃の這入っている革のサックを肩からはすかいに掛けて憲兵が、大地を踏みなら・・・ 黒島伝治 「穴」
出典:青空文庫