・・・ 幾度となくおじぎをしては私を見上げる彼の悲しげな眼を見ていた私は、立って居室の用箪笥から小紙幣を一枚出して来て下女に渡した。下女は台所の方に呼んでそれをやった。 私が再びオルガンの前に腰を掛けると彼はまた縁側へ廻って来て幾度となく・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・音楽家はボーイを読んで勘定を命じながら内かくしから紙入れを捜ってその中から紙幣のたばを引出した。十円札が二、三十枚もありそうである。それを眼の高さに三十センチの処まで持って来て、さて器用な手つきをしてぱらぱらと数えて見せた。自分達は半ば羨ま・・・ 寺田寅彦 「箱根熱海バス紀行」
・・・ 鳥打帽に双子縞の尻端折、下には長い毛糸の靴足袋に編上げ靴を穿いた自転車屋の手代とでもいいそうな男が、一円紙幣二枚を車掌に渡した。車掌は受取ったなり向うを見て、狼狽てて出て行き数寄屋橋へ停車の先触れをする。尾張町まで来ても回数券を持って・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・と僕は持合せた拾円紙幣二枚を渡すと、お民はそれを手に取ったまま、暫く黙って僕の顔を見た後、「後はいつ、いただけるんでしょう。」「それだけじゃ足りないのかね。」 お民は答えないで、徐に巻煙草をのみはじめた。「僕はお前さんに金を・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・中味を棄てて輪廓だけを畳み込むのは、天保銭を脊負う代りに紙幣を懐にすると同じく小さな人間として軽便だからである。 この意味においてイズムは会社の決算報告に比較すべきものである。更に生徒の学年成績に匹敵すべきものである。僅一行の数字の裏面・・・ 夏目漱石 「イズムの功過」
・・・テジマアは一寸うなずいて、ポッケットから財布を出し、半紙判の紙幣を一枚引っぱり出して給仕にそれを握らせました。「今度の旦那は気前が実にいいなあ。」とつぶやきながら、ばけもの給仕は幕の中にはいって行きました。そこでテジマアは、ナイフをとり・・・ 宮沢賢治 「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」
・・・それからその辞令をみんなに一人ずつ見せて挨拶してあるき、おしまいに会計に行きましたら、会計の老人はちょっと渋い顔付きはしていましたが、だまってわたくしの印を受け取って大きな紙幣を八枚も渡してくれました。ほかに役所の大きな写真器械や双眼鏡も借・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・去年十二月下旬日本銀行の紙幣発行高は、凡そ二〇〇〇億円であった。この二千億という紙幣を百円札で八割、十円札二割とすると、面積六六万平方キロ。長さ八二万キロで地球のまわりの長さの二十倍。高さ富士山の百二十倍。この二千億を日本の総人口七千万と仮・・・ 宮本百合子 「正義の花の環」
・・・ いざモラトリアムが公布されるという前日、殆どすべての銀行で、政府要路の人物、財閥たちは、手持ちの厖大な金額を、封鎖洩れとされていた五円紙幣に代えた。モラトリアムが公布されたとき一般の市民は忽ち小額紙幣饑饉で大困難をした。モラトリアム第・・・ 宮本百合子 「私たちの建設」
・・・ しかし、お留は無理に紙幣を握らせた。「薬飲んでるのか?」「いいや、此の頃はもう飲みとうない。」「叔母やん、秋がさっき来てな、安次を俺とこへ置いとけって云うのやが、俺とこは困るぜ。」と勘次はきり出した。「何んやぞ? わし一寸・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫