・・・何十年来シベリヤの空を睨んで悶々鬱勃した磊塊を小説に托して洩らそうとはしないで、家常茶飯的の平凡な人情の紛糾に人生の一臠を探して描き出そうとしている。二葉亭の作だけを読んで人間を知らないものは恐らく世間並の小説家以上には思わないだろうし、ま・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
・・・と女主人は言って、急に声をひそめて、「処が可哀そうに余り面白く行かないとか大ぶん紛糾があるようで御座います。お正さんは二十四でも未だ若い盛で御座いますが、旦那は五十幾歳とかで、二度目だそうで御座いますから無理も御座いませんよ。」 大友は・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・ 論理の連鎖のただ一つの輪をも取り失わないように、また混乱の中に部分と全体との関係を見失わないようにするためには、正確でかつ緻密な頭脳を要する。紛糾した可能性の岐路に立ったときに、取るべき道を誤らないためには前途を見透す内察と直観の力を・・・ 寺田寅彦 「科学者とあたま」
・・・ これを書き終った日の夕刊第一頁に「紛糾せる予算問題。急転! 円満に解決」と例の大きな活字の見出しが出ている。そうして、この重大閣議を終ってから床屋で散髪している○相のどこかいつもより明るい横顔と、自宅へ帰って落着いて茶をのんでいる・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・しかしゼンマイ秤の場合にはもう一つ面倒な歴史という事が現われて来るので、事柄は更に紛糾の度を加えて来る。仮りに目方の方が不変であるとしても、これを比較すべき弾条の弾性というものがなかなか厄介千万なものである。これは第一、温度によって変化する・・・ 寺田寅彦 「方則について」
・・・ そこにおひろもいて、話がまた紛糾を来した。道太は別に強く言ったつもりではなかったけれど、心臓でも昂進したようにお絹が少し目をうるませて、困惑しているのに気がつくと、にわかにいじらしくなって、その日は道太は加わらないことにしてしまった。・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ 婦人が性の本然として生殖の任務をもっているということと、女は家庭にあるべきものという旧来の考えかたと、婦人が今日の社会事情の現実によって課せられている勤労の必然と、この三つのものは現代では未だ非常な紛糾、混乱した関係におかれていると思う。・・・ 宮本百合子 「新しい婦人の職場と任務」
・・・ これからのいよいよ錯雑紛糾する歴史の波の間に生き、そこで成長してゆくために、女は、従来いい意味での女らしさ、悪い意味での女らしさと二様にだけいわれて来ていたものから、更に質を発展させた第三種めの、女としての人間らしさというものを生み出・・・ 宮本百合子 「新しい船出」
・・・以後の伸子がめぐり合った現実は、一家庭内の紛糾だけではなかったし、恋愛と結婚に主題をおいた事件の連続だけでもなかった。一九二七・八年からあとの日本の社会は、戦争強行と人権剥奪へ向って人民生活が坂おとしにあった時期であり、そこに生じた激しい摩・・・ 宮本百合子 「あとがき(『二つの庭』)」
・・・けれども、わたしたちがきょうのこの紛糾した苦しい矛盾をしのいで、将来によりましな社会をうみ出してゆこうとする気力と行動とを失わないでいるのは、何の魔力によってだろう。苦しみながら、ときには涙も出ない思いをかみしめながら、それでもなおわたした・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第十五巻)」
出典:青空文庫