・・・声に驚き、且つ活ける玩具の、手許に近づきたるを見て、糸を手繰りたる小児、衝と開いて素知らぬ顔す。画工、その事には心付かず、立停まりて嬉戯する小児等をみまわす。 よく遊んでるな、ああ、羨しい。どうだ。皆、面白いか。・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・文子は私の顔を見ても、つんと素知らぬ顔をしていたが、むりもない、私はこれまで一度も文子と口を利いたことはなかったし、それに文子はまだ十二だった。しかし十六の私は文子がつんとしたは、私の丁稚姿のせいだと早合点してしまい、きゅうに瀬戸物町という・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ たった一言、吐き捨てて、あと口を利かず、素知らぬ顔をしてやった。すると、またしても、心細げにちらと見上げたお前の眼付きの弱さ!「――こうッと。何ぞ良い考えはないもんかな」 お前はしきりに首をひねっていたが、間もなく、川那子メジ・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・ふと視線が合うと、蝶子は耳の附根まで真赧になったが、柳吉は素知らぬ顔で、ちょいちょい横眼を使うだけであった。それが律儀者めいた。柳吉はいささか吃りで、物をいうとき上を向いてちょっと口をもぐもぐさせる、その恰好がかねがね蝶子には思慮あり気に見・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・ただかの美しき乙女よくこれを知るといえども、素知らぬ顔して弁解の文を二郎が友、われに送りぬ。げに偽りという鳥の巣くうべき枝ほど怪しきはあらず、美わしき花咲きてその実は塊なり。 二郎が家に立ち寄らばやと、靖国社の前にて車と別れ、庭に入りぬ・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・老婦は舷たたき、そはきわめておもしろからんと笑いぬ。「阿波十郎兵衛など見せて我子泣かすも益なからん」源叔父は真顔にていう。「我子とは誰ぞ」老婦は素知らぬ顔にて問いつ、「幸助殿はかしこにて溺れしと聞きしに」振り向いて妙見の山影黒き・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・ 自分はそっとこの革包を私宅の横に積である材木の間に、しかも巧に隠匿して、紙幣の一束を懐中して素知らぬ顔をして宅に入った。 自分の足音を聞いただけで妻は飛起きて迎えた。助を寝かし着けてそのまま横になって自分の帰宅を待ちあぐんでいたの・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・倉蔵はないない様子を知りながら素知らぬ風で問うた。「老先生の御病気はどうかね?」と校長も又た倉蔵の問に答えないで富岡老人の様子を訊ねた。「この頃はめっきりお弱りになって始終床にばかり就ていらっしゃるが、別に此処というて悪るい風にも見・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・けれども、それは素知らぬ振りして、一生おまえとは離れまい決心だった。平和に一緒に暮して行ける確信が私に在ったのだが、もう、今は、だめかも知れない。決闘なんて、なんという無智なことを考えたものだ! やめろ! と男は、白樺の蔭から一歩踏み出し、・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・まことに神を信じているならば、おまえは、寂しい時でも素知らぬ振りして顔を綺麗に洗い、頭に膏を塗り、微笑んでいなさるがよい。わからないかね。寂しさを、人にわかって貰わなくても、どこか眼に見えないところにいるお前の誠の父だけが、わかっていて下さ・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
出典:青空文庫