・・・老人は、それから、手短に、自分の経歴を話した。元は、何とか云う市の屠者だったが、偶々、呂祖に遇って、道を学んだと云うのである。それがすむと、道士は、徐に立って、廟の中へはいった。そうして、片手で李をさしまねきながら、片手で、床の上の紙銭をか・・・ 芥川竜之介 「仙人」
・・・が、地方としては、これまで経歴ったそこかしこより、観光に価値する名所が夥い、と聞いて、中二日ばかりの休暇を、紫玉はこの土地に居残った。そして、旅宿に二人附添った、玉野、玉江という女弟子も連れないで、一人で密と、……日盛もこうした身には苦にな・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ここで暖かに心が解けると、……分かった、饂飩で虐待した理由というのが――紹介状をつけた画伯は、近頃でこそ一家をなしたが、若くて放浪した時代に信州路を経歴って、その旅館には五月あまりも閉じ籠もった。滞る旅籠代の催促もせず、帰途には草鞋銭まで心・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・それから以来習慣が付き、子を産む度毎に必ず助産のお役を勤め、「犬猫の産科病院が出来ればさしずめ院長になれる経歴が出来た、」と大得意だった。 不思議な事にはこれほど大切に可愛がっていたが、この猫には名がなかった。家族は便宜上「白」と呼んで・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・貯金の宣伝は紙芝居でずいぶんやったし、それに私の経歴が経歴ですから、われながら苦笑するくらいの適任だと言えるわけですが、しかしたった一つ私の悪い癖は、生れつき言葉がぞんざいで、敬語というものが巧く使えない。それはこの話しっぷりでもいくらか判・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・私などまだ六年の文壇経歴しかないが、その六年間、作品を発表するたびに悪評の的となり、現在もその状況は悪化する一方である。私の親戚のあわて者は、私の作品がどの新聞、雑誌を見ても、げす、悪達者、下品、職人根性、町人魂、俗悪、エロ、発疹チブス、害・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・、かつ思う毎にその性情は益々荒れて来て、それが慣い性となり遂には煮ても焼ても食えぬ人物となったのである、であるから老先生の心底には常に二個の人が相戦っておる、その一人は本来自然の富岡氏、その一人はその経歴が造った富岡先生。そして富岡先生は常・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・ 三十歳をすぎている小使は、過去に暗い経歴を持っている、そのために内地にはいられなくて、前科者の集る西伯利亜へやって来たような男だった。彼の表情にも、ものごしにも、暗い、何か純粋でないものが自ら現れていた。彼は、それを自覚していた。こう・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・何処ぞの学校の寄宿舎にでも居ったとか何とかいう経歴がありましたら、下らない談話でも何でも、何か御話し致しましょうけれども。 強て何か話が無いかとお尋ねならば、仕方がありません、わたくしが少時の間――左様です、十六七の頃に通学した事のある・・・ 幸田露伴 「学生時代」
・・・ そういう学士も維新の戦争に出た経歴のある人で、十九歳で初陣をした話がよく出る。塾では、正木大尉はもとより、桜井先生も旧幕の旗本の一人だ。 懐古園とした大きな額の掛った城門を入って、二人は青葉に埋れた石垣の間へ出た。その辺は昼休みの・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
出典:青空文庫