十篇の応募作品をよんだ。出来・不出来はあるにしろ、そのどれもを貫いて流れているのは、日本の結核療養に必要な社会施設のとぼしさと、そこからおこる闘病の苦しく複雑な現実の思いである。ベティー・マクドナルドというアメリカの婦人作・・・ 宮本百合子 「『健康会議』創作選評」
・・・ しかし現実では、顕治は不如意のために疲労していた体の栄養補給ができず、結核を発病した。[自注4]クリムサムギンのおじいさん――百合子はマクシム・ゴーリキーの伝記を書こうとしていた。[自注5]去年も一昨年もひどい夏でした――一九・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・になっている。結核療養所になってるところもある。 各工場は、職業組合を通して、めいめい自分たちの「休みの家」を何処かしらに持っている。 職場の連中は、順にその組合の「休みの家」へ出かける。大抵無料だ。けれども、「休みの家」が満員で、・・・ 宮本百合子 「ソヴェト労働者の夏休み」
・・・翌年、もう節は喉頭結核の宣言をうけ、その後は転々として五年間の療養生活の間に主として短歌に熱中し『アララギ』に「鍼の如く」数百首を発表した。この時代節の歌境は非常に冴えて、きびしく鋭く読者の心に迫る短歌を生んだ。しかし、散文としては終に「土・・・ 宮本百合子 「「土」と当時の写実文学」
・・・獄中で結核にかかり、一時重患におち入ったことのある宮本は、私の健康回復法としてきびしい規律的生活のプログラムを与えた。そのプログラムには、夜十時就寝、一日三回の検温、正しい食事、毎日午前中に巣鴨拘置所へ面会にくること、などが含まれていた。こ・・・ 宮本百合子 「年譜」
・・・ 松山くにが十八歳になったとき、彼女は結核性脳炎にかかって、数日のわずらいで亡くなった。 彼女には、「あの包み」といって大事にしている一つの包みがあった。その包みの中には、彼女が療養所生活の中であきずにかき綴った作文の帳面がいく冊か・・・ 宮本百合子 「病菌とたたかう人々」
・・・だから重吉は、自分の努力で病勢を納めて来ているものの、本当には拘置所で患うようになった結核がどの程度のものなのか、正確に知らないも同然であった。もし余りよくなかったとき、いきなりその場でひろ子までを切なくさせたくない。ひとりでにその不安から・・・ 宮本百合子 「風知草」
・・・のすぐれた作品を最後として譲原昌子を結核にたおした。新しく書きはじめている婦人たちの文学は、早船ちよをやや例外として、まだその大多数が、小規模の作品に着手しはじめたという段階である。題材と創作方法の点でも、人民生活としてのひろがりをふくみつ・・・ 宮本百合子 「婦人作家」
・・・ 彼女の息子二人は、結核で死んで居る。又、今度も! と云う感じが、忽ち矢のように心を走ったのである。 生きるか死ぬか、母娘諸共と云うような場合、此方の困ることを云っては居られない。 父の上京のことも思い合わせたが、自分等は、さっ・・・ 宮本百合子 「二つの家を繋ぐ回想」
・・・その上、花のような容貌をしながら二十歳のマリアはすでに結核性の聾になりはじめていた。その恐ろしい事実を彼女はどれ程の緊張でひとからかくしたろう。いくたびか巴里のあっちこっちの医者へその治療のために通ったかもしれないのである。「恋人の日記・・・ 宮本百合子 「マリア・バシュキルツェフの日記」
出典:青空文庫