・・・ この長い長い寒い季節を縮こまって、あだかも土の中同様に住み暮すということは、一冬でも容易でなかった。高瀬は妻と共に春を待ち侘びた。 絶頂に達した山の上の寒さもいくらかゆるんで来た頃には、高瀬も漸く虫のような眠から匍出して、復た周囲・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・もう四日出勤して五日も経てば、ぼくは腐りの絶頂でしょう。今晩は手紙を書くのがイヤです。明晩明後日と益々イヤになるでしょう。虫の好い事を云いつづけに、思いきり云います。一つ叱って下さい。ああ。ぼくに東京に帰ってこい、といって下さい。嘘! ぼく・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・恐怖の絶頂まで追いつめられると、おのずから空虚な馬鹿笑いを発する癖が、私に在る。なんだか、ぞくぞく可笑しくて、たまらなくなるのだ。胆が太いせいでは無くて、極度の小心者ゆえ、こんな場合ただちに発狂状態に到達してしまうのであるという解釈のほうが・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・に見える桃畑の万朶の花は霰に似て、微風が時折、天地の溜息の如く通過し、いかにも静かな春の良夜、これがこの世の見おさめと思えば涙も袖にあまり、どこからともなく夜猿の悲しそうな鳴声が聞えて来て、愁思まさに絶頂に達した時、背後にはたはたと翼の音が・・・ 太宰治 「竹青」
・・・嵐が起って隣家の耳をそばだてさせる事も珍しくない。アクセントのおかしいイタリア人の声が次第に高くなる。そんな時は細君のことをアナタが/\と云う声が特別に耳立って聞える。嵐が絶頂になって、おしまいに細君の啜り泣きが聞え出すと急に黙ってしまう。・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・ こういうふうに考えてくると流涕して泣くという動作には常に最も不快不安な緊張の絶頂からの解放という、消極的ではあるがとにかく一種の快感が伴なっていて、それが一道の暗流のように感情の底層を流れているように思われる。 うれしい事は、うれ・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・の時は絶頂で、最も恐ろしい時であると同時にまた、適当な言葉がないからしいて言えば、それは最も美しい絶頂である。不安の圧迫がとれて貴重な静穏に移る瞬間である。あらゆる暗黒の影が天地を離れて万象が一度に美しい光に照らされると共に、長く望んで得ら・・・ 寺田寅彦 「病院の夜明けの物音」
・・・死ぬといい消えるというが、この世の中にこの女の望み得べき幸福の絶頂なのである。と思えば先生の耳には本調子も二上りも三下りも皆この世は夢じゃ諦めしゃんせ諦めしゃんせと響くのである。されば隣りで唄う歌の文句の「夢とおもひて清心は。」といい「頼む・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・ 伝通院の古刹は地勢から見ても小石川という高台の絶頂でありまた中心点であろう。小石川の高台はその源を関口の滝に発する江戸川に南側の麓を洗わせ、水道端から登る幾筋の急な坂によって次第次第に伝通院の方へと高くなっている。東の方は本郷と相対し・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・一疋の蟻は灰吹を上りつめて絶頂で何か思案している。残るは運よく菓子器の中で葛餅に邂逅して嬉しさの余りか、まごまごしている気合だ。「その画にかいた美人が?」と女がまた話を戻す。「波さえ音もなき朧月夜に、ふと影がさしたと思えばいつの間に・・・ 夏目漱石 「一夜」
出典:青空文庫