・・・の記者は当日の午後八時前後、黄塵に煙った月明りの中に帽子をかぶらぬ男が一人、万里の長城を見るのに名高い八達嶺下の鉄道線路を走って行ったことを報じている。が、この記事は必ずしも確実な報道ではなかったらしい。現にまた同じ新聞の記者はやはり午後八・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・路の右は麦畑、左は汽車の線路のある二間ばかりの堤だった。人っ子一人いない麦畑はかすかな物音に充ち満ちていた。それは誰か麦の間を歩いている音としか思われなかった、しかし事実は打ち返された土の下にある霜柱のおのずから崩れる音らしかった。 そ・・・ 芥川竜之介 「寒さ」
・・・ 監督を先頭に、父から彼、彼から小作人たちが一列になって、鉄道線路を黙りながら歩いてゆくのだったが、横幅のかった丈けの低い父の歩みが存外しっかりしているのを、彼は珍しいもののように後から眺めた。 物の枯れてゆく香いが空気の底に澱んで・・・ 有島武郎 「親子」
・・・中野行を待つ右側も、品川の左側も、二重三重に人垣を造って、線路の上まで押覆さる。 すぐに電車が来た処で、どうせ一度では乗れはしまい。 宗吉はそう断念めて、洋傘の雫を切って、軽く黒の外套の脇に挟みながら、薄い皮の手袋をスッと手首へ扱い・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ もう身も世も断念めて、すぐに死場所の、……鉄道線路へ……」「厠からすぐだろうか。」「さあね、それがね、恥かしさと死ぬ気の、一念で、突き破ったんでしょうか。細い身体なら抜けられるくらい古壁は落ちていたそうですけれど、手も浄めずに・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・かねてここと見定めて置いた高架鉄道の線路に添うた高地に向って牛を引き出す手筈である。水深はなお腰に達しないくらいであるから、あえて困難というほどではない。 自分はまず黒白斑の牛と赤牛との二頭を牽出す。彼ら無心の毛族も何らか感ずるところあ・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・「たとえ、遠いたって、ここから二筋の線路が私の町までつづいているのよ。汽車にさえ乗れば、ひとりでにつれていってくれるのですもの。」 そうおっしゃって、先生の黒いひとみは、同じだいだい色の空にとまったのでした。 流れるものは、水ば・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・ あくる日の夜は、はや、暗い貨物列車の中に揺すられて、いつかきた時分の同じ線路を、都会をさして走っていたのであります。 夜が明けて、あかるくなると、汽車は、都会の停車場に着きました。 そして、その日の昼過ぎには、小包は宛名の家へ・・・ 小川未明 「飴チョコの天使」
・・・乗って来た汽車をやり過して、線路をこえると、追分宿への一本道が通じていた。浅間山が不気味な黒さで横たわり、その形がみるみるはっきりと泛びあがって来る。間もなく夜が明ける。 人影もないその淋しい一本道をすこし行くと、すぐ森の中だった。前方・・・ 織田作之助 「秋の暈」
・・・ 乗って来た汽車をやり過してから、線路を越え、誰もいない改札口を出た。青いシェードを掛けた電球がひとつ、改札口の棚を暗く照らしていた。薄よごれたなにかのポスターの絵がふと眼にはいり、にわかに夜の更けた感じだった。 駅をでると、いきな・・・ 織田作之助 「秋深き」
出典:青空文庫