・・・ちゃんと番人までつけて、線香を絶やさないようにしてある。 そこで上官の方にもお目にかかって、忰の死んだ始末も会得の行くように詳しくお話し下すったんですよ。その時お目にかかって、弔みを云って下さったのが、先ず連隊長、大隊長、中隊長、小隊長・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・老人の※には、花火線香も爆烈弾の響がするかも知れぬ。天下泰平は無論結構である。共同一致は美徳である。斉一統一は美観である。小学校の運動会に小さな手足の揃うすら心地好いものである。「一方に靡きそろひて花すゝき、風吹く時そ乱れざりける」で、事あ・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・焚き残した線香が暗い方でいまだに臭っている。広い寺だから森閑として、人気がない。黒い天井に差す丸行灯の丸い影が、仰向く途端に生きてるように見えた。 立膝をしたまま、左の手で座蒲団を捲って、右を差し込んで見ると、思った所に、ちゃんとあった・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・が、何だか険悪であった。線香をいぶすのにも、お経を読むのにも早過ぎた。第一、室が広すぎた。余り片附きすぎてとりつき端がなかった。退屈凌ぎに飲食することは、前祝いのようで都合が悪かった。 不思議な事には、子供たちは誰一人、眼を泣きはらして・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・お前が線香たててくれるとは実に思いがけなかった。オヤまた女が来た。小つまの連かと思ったら白眼みあいにすれ違った。ヤヤヤみイちャんじゃないか。今日はまアどうしたのだろう。みイちゃんに逢っては実に合す顔がない。みイちャんも言いたい事があるであろ・・・ 正岡子規 「墓」
・・・なんかと云ってその日は常よりも読経の時を長くし御線香も倍ほどあげたりして居た。 夜から私達は庭に出る度にキットこの花の中をのぞいてばかり居た。その中に小さい子供が風流熱にかかったりしたんでだれもかれも申し合わせたように花の事なんかは・・・ 宮本百合子 「つぼみ」
・・・せまい土間に、赤い紙を巻いた線香と、水にさしたしきみやその季節の花がすこしあって、一緒に行った大人が、お線香やしきみを、そこで買った。そして、西村氏と姓を書いて、矢車のすこし変形したような紋がついている手桶を出させ、さて、一行は、庫裏のよこ・・・ 宮本百合子 「道灌山」
・・・資本主義社会の被搾取階級が苦しんでいる苦しみから、具体的に経済的に解放してくれるものは、線香の煙で黒光りになった一個の仏像ではありません。減俸はお釈迦の考え出したことではありません。従ってお釈迦の力で減俸案をどうも出来なかった事実は、現実に・・・ 宮本百合子 「反宗教運動とは?」
・・・お袋は早く兄きが内へ帰られるようにというので、小さい不動様の掛物を柱に掛けて、その前へ線香を立てて、朝から晩まで拝んでいた。」「そこへ兄きがひょっこり帰って来た。お袋が馬鹿に喜んで、こうして毎日拝んだ甲斐があると云って不動様の掛物の方へ・・・ 森鴎外 「里芋の芽と不動の目」
・・・男も女も、線香に火を附けたのを持って来て、それを砂に立てて置いて帰る。 中一日置いて三十一日には、又商人が債を取りに来る。石田が先月の通に勘定をしてみると、米がやっぱり六月と同じように多くいっている。今月は風炉敷包を持ち出す婆あさんはい・・・ 森鴎外 「鶏」
出典:青空文庫