・・・ とおげんは熊吉が編上げの靴の紐を結ぶ後方から、奥様の方へ右の手をひろげて見せた。弟が出て行った後でも、しばらくおげんはそこに立ちつくした。「きっと熊吉は俺を出しに来てくれる」 とおげんは独りになってから言って見た。 翌朝、・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・この堯典の記事は天文の實地觀測に立脚せるものには非ずして、占星思想より編み上げられ、十二宮二十八宿の智識と、陰陽思想とがその根底となりしものなるを知るべき也。 又禹貢の九州を見るに之にも一の系統の截然として存するを見る。東を青州といへる・・・ 白鳥庫吉 「『尚書』の高等批評」
・・・この編上げの靴の紐を二本つなぎ合せる。短かすぎるようならば、ズボン下の紐が二尺。きめてしまって、私は、大泥棒のように、どんどん歩いた。黄昏の巷、風を切って歩いた。路傍のほの白き日蓮上人、辻説法跡の塚が、ひゅっと私の視野に飛び込み、時われに利・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・の知識ではなくて科学者の頭脳から編み上げた製作物とも云われる。そう考えれば科学者の欲求は芸術家の創作的欲望と軌を一にする訳である。しかしこういう根本問題は別としてもまだ種々な科学的骨董趣味が存在するのである。 一口に科学者とはいうものの・・・ 寺田寅彦 「科学上の骨董趣味と温故知新」
・・・批評家自身の芸術観から編み上げた至美至高の理想を詳細に且つ熱烈に叙述した後に、結論としてただ一言「それ故にこれらの眼前の作品は一つも物になっていない」と断定するのもある。そういうのも面白いが、あまり抽象的で従って何時の世のどの展覧会にでも通・・・ 寺田寅彦 「帝展を見ざるの記」
・・・踵にゴムの着いた、編上げの恰好のいい美事なのであった。少なくも私の知っている知識階級の家庭の子供の七十プロセント以上はこれよりもずっと悪いか、あるいは古ぼけた靴をはいているような気がする。 四 馬が日射病にか・・・ 寺田寅彦 「鑢屑」
・・・ 鳥打帽に双子縞の尻端折、下には長い毛糸の靴足袋に編上げ靴を穿いた自転車屋の手代とでもいいそうな男が、一円紙幣二枚を車掌に渡した。車掌は受取ったなり向うを見て、狼狽てて出て行き数寄屋橋へ停車の先触れをする。尾張町まで来ても回数券を持って・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・更紗の布を三角に頭へかぶり、ひろい裾の下から先の四角い編上げ靴を出して、婆さんは、若い女車掌に訊いた。 ――サドーワヤへはどう行ったらよかろかね? ――十月二十五日通りをのってって三月十八日で降りなさい。 ――へ? 十月二十五日・・・ 宮本百合子 「スモーリヌイに翻る赤旗」
・・・ごくあたり前の黒鞣の半編上げだ。この靴にたった一つ、あたり前でないものがある。それは、その大きい平凡なソヴェト靴の裏にうちつけてある鉄の鋲だ。 ヘリをとめるに、鋲は普通靴の踵にうたれるものだ。マヤコフスキーの屍のはいている靴には、鋲が、・・・ 宮本百合子 「ソヴェトの芝居」
・・・襞のどっさりついた短い少女服のスカートをゆさゆささせながら、長い編上げ靴でぴっちりしめた細い脚で廊下から運動場へ出て来る細面の上には、先生の腹のなかも見とおしているような目があった。 女学校へ入ってからも、弟がその学校にいたので、私は毎・・・ 宮本百合子 「なつかしい仲間」
出典:青空文庫